
- Vol.16
- 10.04.24
死別した伴侶を思う

3月に行われた第82回アカデミー賞の長編アニメーション賞は「カールじいさんの空飛ぶ家」が受賞しました。私がこの映画に注目したのは大好きな宮崎駿監督が冒頭のシーンを絶賛していたからです。しかも、この冒頭シーンはテレビでノーカット放送されたので、見られた方も多かったのではないでしょうか?
冒頭映像の内容はカールが子供時代に妻と出会い、結婚し、日々を積み重ねて、妻を失い一人になるという流れを無声画像で綴るものでした。すでにこのシーンで涙した人は多く、私もそのひとり。
印象的なのは、妻が毎日ネクタイを締めてあげるシーンでした。ここのカットで一気に年月が経つのですが、実際の人生もそういうものかもしれないと思ったものです。なにか特別なことが積み重なるのではなく、ルーティンワークのような積み重ねが人生になっていく。そして、その同じことの繰り返しの相棒こそが、人生の伴侶である妻や夫ではないでしょうか?
それが、突然に一人になる悲しみ。
私はまだ結婚15年目なので、もしもそうなったらという想像はとてつもなく遠い世界です。しかし、実際にそうなれば毎日繰り返される同じことに、決定的な欠けが生じるということはわかります。起きて、食べて、寝てが繰り返されるけれど、それが全て一人というのは、孤独という言葉ひとつでは片付けられないものでしょう。
もちろん、友人や子供達はいるかもしれません。けれど、伴侶と過ごす日常とは決定的に違います。それがなくなってしまった喪失からの立ち直りが容易でないことだけは、想像がつきました。
そこにあるのは、日常の喪失です。
毎日ネクタイを締めてくれていた妻の喪失が、ごく当たり前に繰り返されていたものを根こそぎひっくり返す恐ろしい出来事だと気づくのは、ネクタイを結んでくれていた手がないことじゃないかと思っています。そして、そんなささいなことの喪失が、まるごと心を持っていかれてしまう穴になるんじゃないかと思ったのでした。
映画の中のカールじいさんも、妻を失くしてからすっかり塞ぎこんでしまっています。けれどもこの映画は、そこからもう一度うつむいていた顔をあげるという内容です。
カールじいさんは思い出と暮すことを捨てて自ら動くことで、過去を振り返るだけでなく、未来の存在にも目を向けていけるようになりました。そうなるためには、風船で家を飛ばす程のショック療法的なイベントが必要だったのですが、誰もが風船で家を飛ばせるわけではありません。
もしも、伴侶を失ったら......。
もしも、毎日ネクタイを締めてくれていた手を失ったら......。
その先にある答えを見つけるまでの時間、今ある日常のひとつひとつを大事にしていこうと誓うばかりです。
コラムニスト : 日野光里
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