古賀政男
出身地:福岡県
生年月日:1904年11月18日
明治37年福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。
古賀政男HP
http://www.koga.or.jp/


それは、いまから31年前のお昼過ぎだった・・・
私はちょうど自分の経営している音楽学校の一室で、発売されたばかりの自分のLPに収録されていた「悲しい酒」「影を慕いて」など、古賀先生の名曲を聴いていた!
「縁歌」と呼ばれる先生の名曲を私が歌ったものだった。
「親父さん、すいません! 相変わらずへたくそで・・・」と思いつつも、今回は「けっこういけるぞ!これなら先生に聞いてもらえる!」本心はやっと歌らしくなったという思いで、一人、悦に入っていた。
その時、突然部屋の電話が鳴り響いた!電話の主は先生の付き人だった。
「いま古賀先生が、亡くなられました・・・」という急逝の知らせだ!(享年73歳・・・)
「えっ!何だって?先生がどうしたって?」私はその時、呆然自失!電話の内容を理解することさえできなかった。
哀しみや悲しさなどを覚えることも・・・!
自分の愛して尊敬してやまない人を、あまりにも急に失うと、人間誰しもそれを現実として受け止められないのだ!
しばらくして親父(この先は親父と呼ばさせて頂きます)と歩んだ20年以上に亘る時の流れが、走馬灯のように私の心の中を駆け巡った!

出身地:福岡県
生年月日:1904年11月18日
明治37年福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。
古賀政男HP
http://www.koga.or.jp/

私は7歳の時から日本一の名ギタリストと言われた阿倍保夫先生に師事し、クラシックギターを学んでいた! その阿倍先生が「ギターの上手い少年がいる!」と言って引き連れて行った先が、大作曲家・古賀政男先生の家だったのだ!
「弾いてみてくれるか?」私は仰天した!目の前にいるのは、当時数々のヒット曲を飛ばし、日本音楽界の頂点にいる大音楽家なのだ!「本当にいいんだろうか?」と思ったが、すでに指が弦に触れ、私はギターを弾いていた!
あまりの衝撃的な出来事に、なんの曲だったかは覚えていない!おそらくはクラシックだったと思う!
「イヤーすごいな!」古賀先生の第一声だった。1956年のことだ、私はすぐさまゆるされて、古賀先生の門下生となった。
私の父親は、私が生まれて、すぐ37歳で戦死している・・・母親一人の手で育てられた・・・。そんな自分だからだろうか?38歳年上の古賀先生は父親にも思えた! 優しい眼差しと我が子を愛しむ様な古賀先生の姿は本当の父に見えた。 その時から「親父!」と呼んでいる・・・。
思えば私の芸名、アントニオ・古賀も親父が付けてくれたものだ!
親父がアルゼンチンを訪れたとき、ギターの弾き方を手ほどきしてくれたのが、アントニオ・シポリという有名なギタリストだった!このアントニオと古賀政男の古賀をとって、アントニオ・古賀と名付けられたのだが、初めのころはアントニオ・コガとすべてカタカナだった。
1959年にコロムビアからデビューした私の名前は「アントニオ・コガ」だった。タイトルは「フラメンコスタイル・古賀メロディ」私の歌手デビューだった。この時いきなり10曲の古賀メロディを収録した"LPでデビュー"したのは、私が最初だった。これも偉大な親父がいたからこそできた事だと思っている。
そんな親父との間でのエピソードは枚挙にいとまがないが、親父を偲んで、幾つか披露しておきたい!
まずは美空ひばりさんの代表曲「悲しい酒」の誕生秘話・・・
この曲は当初、北見沢さんという歌手の為に作られたものだった。
しかし、発売直後にこの曲の評価もさだまらないうちに、北見沢さんが病で急逝された。
それから10年くらい、いわばオクラ入りしていたものだ。北島三郎さんが、アントニオ・古賀(へたくそで歌えるわけもないが)が・・・いろいろ紆余曲折を経る中、美空ひばりさんに、という話が持ち上がった。
が、歌謡界のトップスターに人の曲を歌うよう頼めるわけもないし、依頼したところで、絶対に断られるだろうと、古賀先生を始めとして関係者全員が思ったのは当然だった!
そこで古賀先生が思いつかれたのが、作詞家の第一人者・石本美由起さんに、新しい歌詞を付けて新曲としてひばりさんに歌ってもらおうということ。「悲しい酒」の中に"語り"の部分が追加され、新曲として甦ったのだ!そのあとはひばりさんの代表曲としていまでも、みんなに歌い継がれていることは言うまでもない!
明治大学マンドリンクラブ創設メンバーであり、その学生時代に作った「影を慕いて」から東京芸大出身の藤山一郎さん、美空ひばりさん・・・と親父が作った曲は5,000を超える!しかもそのすべてがヒット曲と言っても過言ではない。そんな古賀政男先生の名前を受け継いだ形になった私の、喜びと苦しみは計り知れない!
多勢いた門下生の中から何故自分が・・・と、やりきれない気持ちになる。
クラシック・ギタリストを目指し、歌手になってからもラテンのリズムで歌い、決して縁歌歌手ではなかったのに!
もしその理由を挙げられるとしたら、自分で言うのもおこがましいが、私のギターに古賀先生が惚れこまれたことしかないと思う!
いつも我が子のように扱って頂き、食卓にも一緒について食事をともにした・・・!
親父が亡くなって昨年が30周忌、私のデビュー50周年だった。私も「音霊(おとだま)」という本を講談社から出版し、去年の6月から全国100カ所コンサートをスタートさせている!もう残すところ、あと数か所! 我ながら良く頑張ったと思う!

そうだ!大事な思い出の中で、忘れていた事が一つある!自分の母親が60歳、ガンで亡くなったのだが、亡くなる前、入院していたお茶の水の病院に親父が見舞いに来てくれたことだ!その当時ご自分も体調を崩されていて、余命幾ばくもない病人の姿を見るのはどんなに辛かったことだろう!
が、私は親父に怒られた!「なんで早く言わない!母親を大事にしない人間なんて・・・」と。嬉しかった、涙があふれてきた!
そういえば、私がお会いしてから先生はずっと、独身を通されていた。私は聞いてみた!「先生はどんな女性がお好きなんですか?」と。親父はすぐさま答えてくれた。
「そうだなあ、強いて言えば、山口淑子(李香蘭)さん、市丸さん、それと君の母さんくらいかなあ?」
なんでうちの母が入る?分からないがこの3人に共通していることが一つだけあった。
3人とも"気の強い女性"ということだ!
思い出が多過ぎてとても語りつくせない!でも「私の心の中では、古賀先生も、母親も確実に生き続けている!だから悲しさは感じない!涙することもないのだ!」
こんな偉大な方に恩返しができるはずもないが、私は深い感謝の念を込めて、これから病める人たちのために「音楽療法」を生きている限り、続けて行きたい!"人との出会い"が人をここまで変えていく、決して一人では生きてはいけない!・・・このことの大切さをいま、しみじみと感じています!
*日本作曲家協会を作られたり、永眠直後に国民栄誉賞を贈られたり、数々の意義ある活動をされた古賀先生。それに触発されてキューバとの民間大使として「連帯大勲章」をキューバ政府から授与された自分の活動などについては、書き切れないので、割愛させて頂きました!
申し訳ありませんが、以下のホームページでご覧下さい。
古賀政男HP
http://www.koga.or.jp/
アントニオ・古賀HP
http://www.antoniokoga.com/

1941年(昭和 16年) 2月 26日 東京草生まれ。
8歳の時からクラシックギターを 習い、その後日本歌謡界の頂点に立ち数々の大ヒットを飛ばした故古賀政男の愛弟子として名を成し、歌手・ギターリストとして、世界の舞台で活躍。
音楽のみならず社会貢献にもご活 躍し、キューバ政府より永年の功労を称えられ、文化功労賞を受賞、平成15年度日本アカデミア賞文化部門受賞、又平成20年にはキューバ政府より日本の勲一等に相当する「連隊第勲章」を日本の民間人では初めて受賞。
その他、日本ラテンアメリカ音楽協会 理事長、財団法人古賀政男音楽文化振興財団理事、高齢者文化振興事業・社団法人虹の会理事長、東京国際大学人間社会学部 客員教授などの要職でも活躍。
アントニオ・古賀HP
http://www.antoniokoga.com/