森田光德さんを偲ぶ「あの人との思い出」

笑顔が齎した様々なご縁....

『青いお空がほしいのね~~~ 飛ばしてごらん! シャボン玉』
軽やかなメロディと共に毎日お茶の間に届けられる『シャボン玉石けん』のテレビCM曲。
1975年に制作された当時から四半世紀以上たった今でも そのCMは変わらず流され、
いつしか耳に馴染み、誰しもが口ずさんでいたフレーズ・・・でも、この言葉の中には
多くの意味と熱い思いが込められている事をどれだけの方がご存知でしょうか?
そして、この曲の作詞をされたのは『シャボン玉石けん』をこの世に広く伝えた創始者、
森田光德前会長、その人なのです。

moritasan02.jpg 森田光德氏「シャボン玉石けん」元代表取締役社長
2007年9月17日死去(享年76歳)

今年の夏、私は数年前から親しくさせて頂いている、タレントで俳優の山田雅人さんの
ライブに足を運びました。そのライブは"語り"・・・・
山田さんは3年程前から自らが取材し演出し、そして"語る"という舞台をご自身の
ライフワークにしていらっしゃいます。その題材は時には野球選手、マラソン選手、
そして山田さんの恩師でもあるという喜劇俳優など、様々な著名人の方々・・・
「次の世にも語り継いでゆかなければ・・・」と思う人々を山田さんは"語り"という
形で表現されているのです。今ではその"語り"の人物は50人余りいらっしゃるそうです。
そして、今夏、その題材にされていた方は『森田光德氏』。
名前は聞いても存じ上げない方でしたが、『シャボン玉』というネーミングとそのCM曲を
聞けば「誰もが昔から知っている・・・」 そんな『シャボン玉石けん』と共に生きた
森田光德氏の生きた軌跡と素敵なエピソードを山田雅人さんからのお話も伺い、書かせて
頂こうと思いました。

moritasan16.jpg 山田さんと森田光德さんの出会いは13年前、お仕事関係の知人のご紹介でした。
テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に山田さんが出演していた頃です。
初対面から意気投合し、会食の後はそのまま 森田氏の奥様も伴ってカラオケへ。
年齢も職種も異なるおふたり・・・けれど、どんな人と垣根を作らず、誰とでも
分け隔てなくお付き合いをされる森田氏。そんな人柄に魅了され山田さんはその後も
度々、森田氏の元へ訪ねるなどし、そのご縁を深めていきました。そして 山田さんは、
森田光德氏が語るその言動からいくつかの教訓を学んだというのです。

moritasan03.jpg そのひとつは、『笑顔』
笑顔の大切さ、笑顔でいる事の意味、森田氏は常日頃『笑顔』の素晴らしさを実践していました。
格言のひとつにある『一笑一若 一怒一老』。一つ笑えば一つ若返る。逆に、一つ怒れば
一つ老いるという意味。森田氏が老いを自覚し始めた50代の頃、仕事上で打つ手が叶わず、
イライラが募るばかりの時、あえて怒りを表に出さず笑顔を絶やさないように勤めたそうです。
そして、こんな時にも・・・。仕事上の運転資金の借りるため銀行に融資を申し出る際の事です。
森田氏は鏡の前で笑顔の練習をして銀行に出かけたそうです。
「『シャボン玉』はもう少しで売れるようになりますから」
「ちょっと貸してもらえれば、もっと元気になりますよ」
そう願い出ながらも笑顔は欠かさずにいたといいます。
人前ではどんな時も笑顔を貫いた森田氏、そんな心掛けが幸いしたのか、
融資を断られたことは一度もありませんでした。笑顔でいることの意味、重要性・・・
暗い表情でいる人に対して、人はどんな感情を持つでしょうか。
「この人は自信を失っている」不信感を持たれるのが関の山・・・
仮にたとえ同じ状況であっても笑顔であれば「応援しよう」と前向きになれるというのです。
森田氏は自身が経験したそんな体験話を山田雅人さんにも話したそうです。
「笑顔は大事、笑顔でいる人には安心も出来る。けれど、
 その逆で不安がっている人には、人は集まらないだろう?」
おそらく芸道の道でも同じ事です。すべての事柄に通じる事かも知れません。
生きる世界は違えども、その『笑顔』の大切さの持つ意味は同じだろうと話をされたのです。

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森田光德さん1931年(昭和6年)〜2007年(平成19年)

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森田光德

出身地:福岡県

1931年7月15日~2007年9月17日 (享年76歳)

1931年7月 福岡県若松市(現北九州市若松区) 生まれ
1950年4月 学習院大学文政学部入学
         当時の皇太子様とクラスメートに。
1964年3月 当時の森田商店社長に就任。
1971年4月 国鉄(JR)から無添加の石けんの注文受注。
1971年4月 「石けん96%、水分5%」の無添加石けん誕生
1974年8月 一大決心し、無添加の石けんの製造、発売に
         切り替える。
1975年3月 シャボン玉粉石けん発売
1975年4月 シンボルマーク「シャボンちゃん」誕生
     5月 固形石けん発売「(株)シャボン玉本舗」設立
1987年5月 新工場落成に伴い、「シャボン玉石けん(株)」に
         社名変更
2007年3月 取締役社長退任、相談役就任。
         長男 森田隼人氏が社長に就任。
     9月 森田光德会長死去
2010年2月 創業100周年を迎える

 

守り続ける強さ・・・


少し、余談になりますが、私の携帯メールの着信メロディは『スマイル』です。
チャップリンが作曲し、1936年の映画『モダン・タイムス』で使用されていた曲。
「何故この曲にしたのか・・・」そこにはこんなストーリーがあります。
今からちょうど10年前、ニューヨークで起きた9.11のNY同時多発テロ事件の際、
取材で現地に訪れたときの事です。事件直後NYは、今年の3.11東日本大震災のように
街中が悲しみにくれていました。そんな時、思いがけなく現地で耳にした音楽、それが
『スマイル』でした。「今はこんなに悲しく辛いけれど、こんな時だから笑顔でいよう。
そうすれば、やがて本当の笑顔になれる日が、きっと来るから・・・」流れて来たこの曲を
聞くNY市民は涙を流しながらも必死で笑顔を作ろうとしていました。私もその意味を理解すると
共にNY市民の痛みも感じ、もらい泣きしながら笑顔でいることのパワーと意味を考えていました。
忘れてはならない世界的なその事件、そして『笑顔』・・・その日以来、私の着メロは、
いつも大切なメッセージを『スマイル』と共に届けてくれています。

moritasan18.jpg 今回掲載させて頂いた、いくつかの森田光德氏の表情、そのどれもが心からの『笑顔』に
包まれているように思います。『笑う門には福来る』。昔から伝えられる言葉の意味を
もっと深く受け止め、もう一度『笑顔』を日々実践してみようと思いました。

そして、森田光德氏が座右の銘にしていた こんな言葉があります。
それは『 好 信 楽 』。「古事記」の中に記されているというこの言葉。
「学問は"好"きでなければならない」「世に役立つと"信"じろ」「"楽"しまないと長続きしない」
『シャボン玉石けん』が売れず失意にあえいでいた時、この言葉が心に染みたそうです。
『シャボン玉石けん』に対する思いも同じ・・・「好み、信じ、楽しまないと長続きしない」
そう感じた森田氏は、それ以降、この素朴な"三文字"を座右の銘にしたそうです。

moritasan01.jpg 今回、記事を書かせて頂くことになり、北九州市にある『シャボン玉石けん』の工場に
足を運ばせて頂きました。博多から列車を乗り継いで約一時間。駅を降りるとそこは、
静かな山々に囲まれた穏やかな町。そこで『シャボン玉せっけん』が作られています。
案内された工場は外観も設備もシンプルで清潔感が漂い空気が澄んでいる感じでした。
工場内部の見学の際には森田光德氏とは60年以上もの付き合いがあったという会社顧問の
井関 巌さんが付き添って下さいました。現在81歳になる井関さんは今でも工場に足を運び、
製造される大きな釜の中の石けんに愛情を持って接し、長年培われたその感性と職人としての
鋭い感覚で、その製造工程をこまめにチェックし、見るだけでなく音や匂い、あるときは舌で舐め、
五感をフルに働かせて生きている石けんの微妙な変化を見極めています。まさに職人ならではの業。
その井関さんの姿は、一個一個のせっけんに対する責任と誇りと心からの愛情を持ち、まるで
我が子を産み育て上げるような表情でした。そして、井関さんはこんな事もお話されていました。
「人の肌に直接触れる石けんだからこそ、触れた人が喜んでくれる石けんを作りたい!」

moritasan12.jpg その井関さんにも亡き森田氏の思い出話をお伺いしました。
仕事では妥協せず厳しかったけれど、その人柄は愛すべき人・・・
「この人について行こう・・・」井関さんは最後まで 森田氏の生き様に魅了されていたようです。
男が惚れるほどの生き様・・・その森田光德氏の人柄を思わせる こんなエピソードがあります。

moritasan13.jpg それは高度成長期の1961年頃、森田氏は毎年出来る赤い湿疹に悩まされ続けていました。
皮膚科の先生に診てもらっても原因が分からず薬も効きません。痒みに耐え切れず、様々な
治療を施しますが、効果はなかったのです。そんな時、当時の国鉄(現JR)から機関車を
洗う無添加の粉石けんの注文を受けたのです。「合成洗剤で機関車を洗うと。どうしても
サビが出る。天然油脂で作る純度の高い石けんで試してみたい」というものです。森田氏は、
早速、その高純度の粉石けんの試作品を作り自宅に持ち帰り洗浄試験を兼ね使用してみました。
すると5~6日経ったあと湿疹が治っていったと言うのです。森田氏を長年苦しめていた赤い湿疹は
自社の商品である合成洗剤が原因でした。合成洗剤による皮膚障害は、本や新聞などで知っては
いたものの、まさか、自身がその毒性の対象者であったことに森田氏はショックを受けました。
「悪いとわかっている商品を知らぬ顔をして売るわけにはいかない」
「即刻、合成洗剤の販売はやめなければいけない」でも、当時ドル箱であった合成洗剤を
取扱商品から除けばどういうことになるのか・・・、経営の事を考え、悩み続けたといいます。
けれど、森田氏は社員の反対を押し切り、意を決して無添加石けんの発売に踏み切りました。
結果、月8千万円あった売上は100分の1にまで落ちてしまいました。業績も上がらず、
無謀としか考えられない事態に100人いた従業員は5人になったと言います。そうした背景の中、
1974年『無添加』の製造販売に切り替え、翌年『シャボン玉石けん』が誕生したのでした。

moritasan08.jpg 当時、現代の様に"環境や安心・安全"などはほとんど言われていない時代。
「私の悪戦苦闘の歴史がこのときから始まった」と森田氏が語っているように経営は行き詰まり、
17年の赤字が続いたのです。それでも森田氏はかたくなに「無添加石けん」を作り続けました。
それは、頑固なまでの「安心・安全なものを求めるお客様のために」という信念からでした。
その『信念』を貫くため必死で生きた森田氏は「無添加せっけん」が世間で見向きもされない時、
商品サンプルを1万個も作り、北九州の繁華街で道行く人に手配りし、返信用の葉書きを付け、
使用感を聞いたのだそうです。「石けん素地100%」の「無添加石けん」、そのこだわりは、
環境、大きく言えば、地球環境と人類のためになるから・・・。家庭で使用した石けんカスは、
海や川にいる小魚や微生物のえさになるのです。つまり私達の生活は暮らしを経て再び自然に
還り回りまわっている。だから、一人一人がそれを意識する事で未来の綺麗な水や環境に繋がり、
地球や人を守る事になるのです。それが、『シャボン玉石けん』のこだわりなのです。

moritasan10.jpg いま、北九州の工場にある社長室では、素敵な笑顔の先代『森田光德氏』の写真が飾られ、
そのお父様の写真の前で、ご長男の現社長、森田隼人さんが、業務に励んでいらっしゃいます。
激動期を乗り切った亡き森田氏は「百周年までは現役で」と、語っていらしたそうです。

moritasan19.jpg 昨年創業百周年を迎えた『シャボン玉せっけん』その轍にはしっかりと見極める目を持った
多くの賛同する方々がいます。「健康な体ときれいな水を守る」を原点に「無添加石けん」を
パイオニア企業として、その素晴らしさを今後も提唱し続けたいと言う現、森田隼人社長。
その販路は現在日本だけでなく、中国、韓国、台湾をはじめとするアジア、さらにはアメリカ、
ヨーロッパの国々やロシアと世界に及んでいるようです。

どんなに文化や時代が発展しようともけして変えてはいけないもの、守らなくてはいけないもの。
それは、実はいたってシンプルなものなのかも知れません。 "シンプル イズ ベスト"
『シャボン玉石けん』、そして、その道をこだわり抜いた森田光德氏は、その笑顔と共に、
この時代に、石けんを通じて最も大切な"心"を教えてくれてたように思います。

『青いお空がほしいのね~~~』
そう、それはきっと大人も子供も、世界中の誰もが望んでいるはずだから・・・。
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取材協力:山田雅人さんの紹介

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山田雅人(やまだまさと)


1961年1月22日 大阪府出身

大阪学院大学商学部卒業

20歳の時に若井はやと氏に弟子入りし松竹芸能の所属に。
朝日放送『おはよう朝日です』でテレビ初出演後、
バラエティ番組などの司会も務める。

ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』には板前役で12年出演他、
『男はつらいよ』『古畑任三郎』『ナニワ金融道』等、俳優、
タレント、司会者など、多彩な才能を生かし多方面で活躍。

最近では『かたり』の世界へ目を向け活動の幅を広げている。
主な語りの作品は、『伝説の天覧試合』『江夏の21球の死球』
『藤山寛美物語』『津田恒美物語』等、現在で約五十作品。
今後も語り継ぐべき人々を取材し自身の語りで伝唱してゆく。

http://yamada-masato.laff.jp

嵯峨 聖子のご紹介

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3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち

ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。

嵯峨 聖子HP http://www.sagaseiko.com/