明治、大正、昭和、平成・・・と百余年の生き様
毎年やってくる5月の "母の日"・・・
この世に存在している限り、誰もがかならずひとときは母を思うこの日・・・
けれど、そのお母様の姿を特別な日だけにあらず日々常に念頭におき、
その姿をご自身に反映し、美しく凛とした生活を送っていらっしゃる方がいます。
日本テレビの『ザ・ワイド』という情報番組でご一緒させて頂いた、加藤タキさん。
コメンテーターで、出演していらっしゃる加藤タキさんの姿から、
私はいくつか学ばせて頂く事がありました。そのひとつ・・・
その後の私の取材、あるいは人生に大きく関係し、意味深い言葉となった一言。
それは、「死に様は生き様」
実はこの言葉を私が最初に耳にしたのは番組に出演中のタキさんの一言でした。
その瞬間、私の心がどれほどまでに深くこの言葉をキャッチした事か・・・
それからは、生きていく時間に常にこの言葉が頭を過ぎることになりました。
そして、タキさんが仰った、この言葉の中には、
おそらくお母様、"加藤シヅエさん"の姿がいつも存在している事を感じます。
何故ならば、その言葉以上に「生ききられた」お母様だったから・・・
104歳のその最期まで、凛として魂を輝かせ生きた、加藤シヅエさん。
私がお話を伺いに出かけた「タキ・オフィス」・・・たくさんのお写真を前に、
そのお母様のことを語る加藤タキさんもまた誇らしげな輝きに包まれていました。
加藤シヅエさん 2001年 12月22日死去 (享年104歳)
明治、大正、昭和、平成と四つの時代を生き、まさに日本にとって激動の世紀の中、
日本初の女性国会議員として封建的家族制度の改革をはじめ、
人工妊娠中絶の合法化、売春防止法の制定など、女性の法的権利確立のために闘い
尽力された加藤シヅエさん。日本、そして日本女性の地位向上のため、
その人生の時間をかけてどれほど貢献された方であったか・・・
そして、加藤シヅエさんはそうした側面以外においても自らが妻として、母として、
また女性として常に情熱的に生き、愛情溢れる素敵な素顔をお持ちの方でした。
タキさんは、そんなお母様からこんなお話をよくを聞いていたそうです。
「100年以上生きてきて、いろんな人の人生を見てきたけれど、
本当に人を愛することの出来なかった人は、年をとってから幸せになれないものです。」
深く人を愛する事が出来た人は、その人の体から愛情が溢れ出て、いろんな人に
注がれているから、愛の照り返しを受けて幸せそうに光っている。そして、
愛によって傷ついたり悩んだりした経験のある人を人間として信頼していたのだそうです。
現在、コメンテーター等のお仕事をされているタキさんの本名は多喜子さん。
多くの人に喜びをもたらす子という願いのこめられたその名のとおり、
シヅエさんに限りない幸せをもたらし、誕生したのはシヅエさんが48歳の時。
そして、タキさんもまた、結婚、離婚、再婚、
そして、初めての長男を授かったのが42歳の時、お母様と同じ高齢での出産。
喜びの初孫を抱く事になったシヅエさんは、90歳でした。
お孫さんの誕生がシヅエさんのさらなる活力になった事は言うまでもありません。
ところが、この初孫が誕生した直後の事、シヅエさんは、タキさんにこんな事を
仰ったそうです。「この子は "挫折" をなるべく早く味あうといいわ」
産湯につかってすぐに運ばれてきた初めてのお孫さんに対して真っ先に伝えたメッセージ・・・
その時のタキさんの驚く顔が想像出来そうです。
でも、それは初孫の誕生を喜ぶシヅエさんの愛情いっぱいの祝福のメッセージでした。
その後もシヅエさんは、こんなお話をされたそうです。
「人間は立ち上がる力がある若いうちに挫折を経験すべき。
挫折した事のない人はダメ。人間、苦労しなきゃダメ。
多く傷ついた人はそれだけ、人を思いやり、優しくもなれる。
自分が苦労すると世の中苦しんでいる人がいるんだ、という事が分かる。
苦しみあるところに喜びあり、怠け者には幸福はありません。」
間違いなく、タキさんご本人もまたお母様のそうした教えを受け、成長し、
大人になったおひとり・・・しかも、同じく子を持つ母親の立場・・・
そのシヅエさんが語るメッセージの持つ深い意味はそう時間がかからずとも、
理解をされたそうです。
タキさんがまだ幼い子供の頃、自宅近くの焼け野原だった場所でこんな事がありました。
そこは藪はぼうぼう足元に瓦礫などがあり、小さい子供が遊ぶには危険も伴う場所・・・
でも、そんなときにでもお母様は手を引いてあげる事はしなかったそうです。
ただただじっと、後ろから、タキさんの歩む姿だけを見守る母、シヅエさん・・・
・・・その結果、タキさんは瓦礫に足を取られ転んでしまった!!
でも、シヅエさんはすぐに手を貸すことはしませんでした。
そして、娘がどんなに泣いてもただ様子を見守り、
タキさんが自分一人で立ち上がったのを見て初めて我が子を胸に抱きとめたのだそうです。
これは母としての "勇気" 手を差し伸べない、"勇気"
「今度はどうしたら転ばないか、自分の頭でよく考えましょうね」
子供が転んだらどうなるか・・・分かっていながら手を貸さないで経験させてみる、
我が子を思うがゆえの母の "勇気" だったとタキさんは言います。
そして、転んで擦りむいて血が出てしまった時・・・
こんなときもシヅエさんならではの子供への教えがありました。
「傷は時間が経てばかならず、治るから・・・でも、これだけは覚えておいて・・・
世の中にはいろんな人種がいる。だから、肌の色が違っていても当たり前。
でもね、みんな同じ赤い血が流れているのよ、つまり、みんな同じ人間なのよ。」
こうしたお母様の言葉から、タキさんは国際人になるべき"教え"を子供の頃から
お母様に日々、自然の中で教えられていたのだそうです。
加藤シヅエ1897年(明治30年)〜2001年(平成13年)
加藤シヅエ
出身地:東京都
1897年 3月2日生まれ
国会議員、(社)日本家族計画連盟会長、(財)家族計画国際協力財団会長
伝統的な日本文化とリベラルな西欧文化に接して育つ。
ジャンヌ・ダルクの生き方に感動し、社会に役立つ女性になりたいと志を立てる。
女子学習院中等科卒業後、17歳で石本恵吉男爵と結婚。
夫の赴任地三池炭鉱で苛酷な労働と多産に苦しむ女性たちの境遇に、衝撃を受ける。
二人の息子を実家に預け、米国バラードスクールに留学。
マーガレット・サンガー夫人の産児調整運動に共鳴、計画出産こそ女性解放につながると確信し、日本での普及に努める。
毛糸輸入会社の経営やアメリカ各地の講演旅行など、大正デモクラシーの理念を実践しつつ、戦前から日米友好の架け橋となる。
労働運動家・加藤勘十と再婚、48歳で長女 加藤タキを出産。
戦後、日本初の女性国会議員となり衆参合わせ28年間、女性の地位向上や環境問題などに尽力。
77歳で政界引退後も講演・執筆活動を続け、
2010年12月22日 104歳の天寿を全うした。
勲一等瑞宝章、国連人口賞、東京都名誉都民。
加藤シヅエさんが初当選したのは、まだタキさんが1歳の時。
幸いにも心を許して子供を預ける方がいたというものの、
"母と娘"、一番そばに母のぬくもりを感じていたい時期・・・
その環境はタキさんが物心付く成長期においても変わる事は無く、
議員として国のために働くシヅエさんは、我が子との時間は制限されていました。
そうした中、いつもお母様が傍にいない事で周りからは「可哀相に・・・」と、
良くも悪しく心配される声も・・・
けれど、タキさんはそんな声を他所に母の愛情をいつも感じていました。
それは、母と娘を繋ぐ素敵なメッセージの存在があったから・・・
実はシヅエさんは毎日、タキさんに一枚のメモを残し出かけていたのです。
学校から帰ると、そこにお母様の姿は無くとも必ずおやつの横に一枚のメモがありました。
「お帰りなさい。あとでゆっくりお話をいっぱい聞かせてね。」
愛情のこもった、お母様の一文字一文字・・・
我が子をいつも気にかけて、ちゃんと見ている事を分かるように示していたのです。
そして、その最初と最後には、こんな言葉が・・・・
「最愛の娘、多喜子へ
・・・・・・大好きなママより」
メッセージを書いている時のシヅエさんは、国を考える議員の厳しい眼差しではなく、
おそらく誰よりも強い愛情で娘を思うひとりの母として、優しい表情だった事でしょう。
傍にいる時間が短くてもたくさんの愛情を感じて育った・・・
当時の事を思い出しお母様のこと語るタキさんは、この素敵なエピソードが
誇らしげでもあり、羨ましく思えるほどでした。
加藤シヅエさんは『ピンクレター』なるものを考えました。
鮮やかなピンクの封筒にしたためた激励の手紙を、良い事をした人に対して送り届けるというものです。
「人間は自分のした事をわかってもらって誉められた、こんなときにはとても
嬉しいのです。報われたと心の中で頷くのです。今、世直しが成されなければならない
とお互い思っていますから、大きな事でも、小さな事でも純粋に実行された一つの
貢献に対して、すかさずピンクレターが「良かった・・・」といってその方のお手許に届く。
私達は一筆で結構ですから。良き世の中を作りたい心を、ピンクレターを通じて拡げて参りましょう」
(「ピンクレターと私」加藤シヅエ 小冊子より)
最初のピンクレターの届け先は、昭和62年8月、時の通商産業大臣 田村 元様への手紙でした。
その後も、中曽根康弘様、土井たか子様、曽野綾子様、宮澤喜一様、橋本龍太郎様、曙関様、
新聞で見つけた"火事の中、我が子を守った あるお母さん"・・・
送り先は、地位の高い方、有名人だけを目指して出すわけではなく、激励や感謝の気持ちを
お伝えしたいとする方々に向けて出されたそうです。ささやかなようであっても大きな力・・・
当時としては珍しい鮮やかな海外仕様のロサンジェルスから取り寄せた、ピンクの封筒。
突然でも受け取った側からすれば、驚くほど心温まるレターであった事は言うまでもありません。
自分の事だけではなく相手の立場になって考える、つまりは国民のひとりひとりの目線で考える。
「世の中を良くするにはね、ほめること、それが大事なんですよ。
ほめる力を強くすることが、どんなに世の中を良くし、人間を良くするか。」
(「百歳」愛と勇気の言葉の記録 加藤シヅエ 著 より )
生きている限り、たくさんの生きるメッセージを残し伝えた、加藤シヅエさん。
その中で、私でも日々実行しよう、と考えている事があります。
シヅエさんが100歳になる頃「長生きの秘訣は?」と質問された際に
いつもお答えになっていたという素敵なメッセージです。
それは「一日10回感動なさい。」と言う事。
感動とは、心を素直に開くこと。毎日たくさん感動して、まだまだ自分を育てていく、
それが長生きの秘訣。そして、それは、特別な事ではなく・・・
「道端で綺麗に咲く可愛いお花を見つけた!」「今日も美味しくご飯がいただけた」・・・
何気ないことです。でも当たり前ではないのです。
そんな日常のささやかな事に心を傾け感動する。
計り知れない現実や常識が覆されている現実社会・・・
だからこそ、シズエさんのメッセージは 今、最も大事な事であるのかも知れません。
このお話もまた私の日々の教えになり、毎日実践するよう心がけています。
10年前、2001年の12月に104歳で天国へ旅立たれた加藤シヅエさん。
残念ながら、生前直接お目にかかる機会には恵まれませんでしたが、
何故か私は勝手に親近感を抱かせて頂いていました。
というのは、お誕生日が同じ3月2日だったから・・・・
毎年冬から春、季節が変わり、そろそろ温かくなりつつある頃、お誕生日を迎える・・・
女の子の節句の前日でもあり、記念日を迎える頃にはいつもワクワクするのです。
「もしかしたら、ご一緒だったりして・・・」今回、そんなことにも思いを馳せ、
「おそらく生きてこられた何万分の一もお伝え出来ない、でも書かせて頂けないでしょうか?」
加藤シヅエさんの記事を書かせて頂く事に付いて、そんな大胆なお願いをしてしまいました。
でも、加藤タキさんは快く願いを叶えて下さったのです。
そんなタキさんには、私は心から感謝してもしきれない出来事があります。
それは、私の父が急逝した9年前の事・・・
父は大阪に住んでいたため、最期は見とれず、その後、父の訃報は
仕事先のスタッフや友人にも事後報告になっていました。
ところが、それから数日過ぎたある日、私がいつも通り日本テレビのスタジオへ行くと、
その日 番組に出演されていたタキさんが、「嵯峨さん、遅くなったけどお父様へ・・・」
そう言って、ご丁寧なお心遣いの"香典"を私に手渡して下さったのです。
思いもかけない出来事に、その時の私は驚きと共に胸が詰まる思いでした。
その後、大阪の父の霊前に「加藤タキさんからですよ。」と、納めさせて頂きました。
私が出ていた番組は欠かさず見ていた父。タキさんからのお心遣いは、父もさぞかし嬉しく、
ありがたく思っていた事でしょう。その時のタキさんの温かいお心遣いは忘れる事はありません。
良い時ばかりでなく、いざという時にさり気なくこんな心配りが出来る・・・
タキさんには、感謝の気持ちでいっぱいでした。
そんなタキさんの生き方もまた、お母様の『生き様』あってこそなのではないでしょうか・・・
参列させて頂いた、加藤シヅエさんのご葬儀は政財界含め、さまざまなジャンルの皆様が
大勢集まり悲しみ惜しんだ事は当時のメディアでも多く伝えられました。
取材も兼ねていた私はその中で、これはかならずお伝えしたいと思ったのが、
会葬御礼の葉書きについて。この葉書きが、なんと赤い縁取りで彩られていたのです。
お葬式に "赤"!? 普通では考えられないこと・・・でも、
104歳、天寿を全うし生ききった加藤シヅエさんには相応しいことだと思いました。
お母様の事を隅々まで知るチャーミングなタキさんならではのアイデアなのでしょう。
シヅエさんの最期・・・
手をとるタキさんの前でお母様は・・・
「多喜子。いろいろ、ほんとにありがとう。あなたはもう一人で大丈夫。
21世紀に生きるあなたは、きっと世の中のお役に立つでしょう。でも、
願わくば愛情の提供者になってほしい。効率的な女になったら不幸になりますよ。
私を今日まで生かしてくれたのは愛だということを、あなたは誰よりもいちばん
よく知っていますよね」 心の奥のどこかで聞こえていた母の声が、そこで止まった。
(「加藤シヅエ 凛として生きる」加藤シズエ・加藤タキ 著より)
「命のバトンタッチ・・・」
お母様、加藤シヅエさんの事をお話される加藤タキさんから、そんな事を感じました。
そして、お母様の最期の想いがタキさんにしっかり伝授されていると感じられる出来事は、
私がインタビュー取材でタキ・オフィスにお伺いしている数時間の間にもありました。
それは、東日本大震災へのボランティアです。直後のGWの時間を利用し、
タキさんは翌日からスタッフの皆さんと被災地へ行く計画を立てていらしゃったのです。
その為の手続き、手配、準備、現地の状況、連絡、・・・
忙しくもテキパキさい配されるタキさん、現地ではお母様の思いの分も行動されたことでしょう。
「生ききる」とはどういうことなのか・・・
戦後、日本初の女性国会議員になり、77歳で政界引退した後も講演、執筆活動を続け、
2001年、104歳の天寿を全うし旅立たれた加藤シヅエさん。
その生きている様がバイブルであり、これ以上はないほどに命の最後の一滴まで生ききられた・・・
人生最期のときを迎えたときに、それまでどう生きてきたかが分かる『死に様は生き様』
長きに渡り信念を貫き、生きたシヅエさんの真実の愛に溢れた人生からはたくさんの言葉と共に
100年幸せに生ききる大切な教えとヒントがあるように思います。
そして、もう一つ・・・
最後まで自立して自分らしく生きていくことを望まれたシズエさんが娘、タキさんへ言った一言。
『 Be Yourself (あなたはあなたらしく)』
「上手くやろうと思うととたんに、あなたはあなたでなくなる。
あなたは、あなたらしくやればいいのよ・・・・」
優しさが溢れた素敵な言葉です。
私もまた、このメッセージを胸に私らしくこれからを生きたいと思っています。
タキさんを通じて素敵な出会いが出来た事、感謝しています。
「 加藤シヅエさまへ・・・
どうか安らかに。 心から、ありがとうございました 」
取材協力:加藤タキさんの紹介
加藤 タキ(かとうたき)
1945年 東京都生まれ
父 加藤勘十、母 加藤シヅエ、共に政治家、社会活動家。
アメリカ留学から帰国後、米国報道誌のリサーチャーを経てショービジネスの世界へ。
オードリー・ヘップバーンやソフィア・ローレンをはじめ、海外のトップ・アーティストのCM出演交渉や音楽祭などで、国際間のコーディネーターとして先駆的役割を果たす。
講演やコメンテーター、各種委員、著述、その他様々なメデイアで活躍。
日本初の女性国会議員であり104歳を生ききった明治人の母・加藤シヅエの精神と言葉を、後世に語り継ぐことを使命の一つとし、ボランティアにも励む。
認定NPO法人 難民を助ける会 副理事長
NPO法人 新現役ネット 副理事長
日本アンチエイジング歯科学会「アンチエイジングアワード2009」受賞
著書『50歳からの自分磨き』(大和書房)、他多数
嵯峨 聖子のご紹介
3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち
ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。
嵯峨 聖子HP
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