丹波哲郎さんを偲ぶ「あの人との思い出」

俳優 丹波哲郎を支えてきたもの....

『007は二度死ぬ』
映画ファンならずとも そのタイトルを見れば、誰もが知っているイギリス映画。
その作品をはじめとする数々の外国映画にも出演し、世界に羽ばたく国際俳優の 先駆けとなった、日本の顔である俳優、丹波哲郎さん。

tamba_6.jpg いつお会いしても、どんな場面においても変わらぬどっしりとした、
その絶対的な存在感は在りし日の丹波哲郎さんのイメージそのものでした。
けれど、その『 俳優 丹波哲郎 』の変わらぬイメージを維持し守るために、
そこには、如何なるときも揺るがず見守り続けたご家族、そして最愛の妻、
貞子さんの存在があってこその現実であった事をどれだけの人がご存知だったでしょうか・・・

丹波哲郎 1922年7月17日~2006年9月24日 享年84歳

2006年9月・・・
東京の青山葬儀所で営まれた葬儀には私も取材陣の一人として立ち合わせて頂きました。
石原裕次郎さん、美空ひばりさん等、大スターと呼ばれる数多くの方々を送ってきた
その式場での告別式、この日も丹波哲郎さんを偲び多くの弔問客が次々と訪れ、 行列が出来る程のその様子を眺める私は、84年の年月を経て生きた丹波さんの 人間の深さ、人生の重みを感じる瞬間でもありました。

丹波さんは俳優として世界を股にかけ国際的に、そしてあるときは霊界の話もするなどし
その発言や思考は地球規模にも及びました。しかし、そんな豪放磊落な印象の丹波さんが
「実は人一倍心配症で、繊細であった・・・」
今回お話をお伺いさせて頂いた、ご長男で俳優の丹波義隆さんは、
お父様の素顔をそう語り、たくさんのエピソードの中には必ずと言っていいほど、
長年寄り添った妻、貞子夫人の存在があった事をお話をして下さったのです。

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丹波哲郎さんの妻、貞子さんは義隆さんが3歳の頃、ある日突然、
身体の不調を訴え、気が付いたときには車椅子での生活を強いられる事となります。
義隆さんが物心付いてから以降は、すでにお母様が歩いている姿は見ることが無かったと言います。
でも、この事実は親戚以外の者には知らされることはなく、
それはマスコミにとっても例外ではなく「知られざる現実」でした。
貞子さんの病気は『小児麻痺』 歩く事は出来ず、右手も不自由になり、
力を入れることもままならない状態・・・
主婦として必須である家事全般でさえが、簡単な作業ではなくなり・・・
両手を合わせ作る「おにぎり」でさえ、貞子さんにとっては困難を極めていました。

義隆さんがまだ小さい幼稚園児の頃、こんな事がありました。
遠足で園児たちはみんな手作りのお弁当を持参だった時のことです。
子供にとっては、お母さんが作ってくれたお弁当を開く瞬間は、
ワクワクする、楽しみの一つでもあるはず・・・
けれど、丹波家、義隆さんのお弁当は注文したお寿司屋の巻物でした。
勿論、当時、お寿司と言えば、子供ではなかなか口にする事のない高級品です。
ところが、本来なら心弾ませるお弁当の時間、義隆さんにとっては、
一番苦痛を感じる時間だったのです。「赤いタコのウインナーが食べたい・・・」
何でも欲しい物は買い求められ、苦労も無く伸び伸びと明るく育った義隆さん、
けれど、そんなささやかな事に人と違う違和感を覚え悲しさを感じていました。
貞子さんは、そんな義隆さんの思いに気付いていました。そして、母親としてなんとか
我が子の気持ちに応えようとします。不自由な手でも作れる温かみのあるお弁当・・・
そう考え作ったのは、食パンを丸めてロールパンにした手作りのお弁当でした。
包丁を使わなくても身体を起こさず寝たままでも、ロールパンなら、身体の重みを利用し
なんとか転がすだけで完成できます。パンの中には義隆さんの好きだった赤いウインナーの
具材も入っていました。それは不自由な身体を駆使し作った愛息への最高 の手作り弁当でした。

tamba_1.jpg そんな貞子夫人は丹波家にとって『太陽』でした。
衛星の中でも太陽の存在が重要視されているがごとく、
ご家族は太陽である貞子さんを中心に回っ ていたのです。
それはハンディキャプがあることなど忘れてしまうほどで、貞子さんが居ないと、 家の中が暗くなる程だったといいます。とにかく明るい貞子夫人・・・
勿論それは、世界に目を向け活動する丹波哲郎さんにとっても例外では有りません。 
まさにその存在は光りを放つ『太陽』そのものでした。

丹波哲郎1922年(大正11年)〜2006年(平成18年)

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丹波哲郎

出身地:東京都

1922年 7月17日 東京都出身
2006年 9月24日 死去 享年84歳

創芸小劇場、文化座を経て新東宝に入社
1952年 映画「殺人容疑者」にてデビュー
1960年 テレビドラマ「トップ屋」で注目
1967年 イギリス映画「007は二度死ぬ」に出演
      三船敏郎氏に次ぐ国際俳優と呼ばれる。
1968年 テレビドラマ「キーハンター」に主演
      その後、「アイフル大作戦」「Gメン'75」と出演
      TBS系土曜午後9時の顔となる。
1974年 映画「砂の器」に出演
1980年 映画「二百三高地」に出演
      ブルーリボン賞助演男優賞
      日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞

50年以上に及ぶ俳優生活の間、テレビドラマ、外国映画の10本を含む、 300本以上の作品に出演する。

 

家族があればこその優しさ・・・・


自身の事よりもまずは『俳優 丹波哲郎』に惜しみなく光を注ぎ、
見守り続けた貞子夫人。その人生は、まさに丹波さんと共に生き過ごした年月・・・
『俳優 丹波哲郎』を守る事に命を駆けたと言っても過言ではないほどでした。
ある時、丹波哲郎さんが女性問題でマスコミを賑わす出来事もありました。
でも、そんな時でも貞子さんは、「知ってるわよ・・・」
問いかけた義隆さんの言葉にそう答え、「自分がこんな身体だからね・・・」
そう答え、騒ぎもせず現実をしっかりと受け止めていたそうです。
外で悪さをしたやんちゃな夫の行動に対しても常に夫を思い、至極冷静な妻・・・
そんなご両親の様子を眺め、おそらく息子である義隆さんの気持ちの方が、
怒り漣立つ出来事だったことでしょう。

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そんな生前のお父様の事を義隆さんは・・・
「親父は人生を謳歌した・・・羨ましいとも思う」
元気な時には反面教師で、良くも悪しくも同じ男として一番に意識する存在。
同じ俳優の道を選んだ事については、「役者としては親父は天才」
「天性の才能を持つ親父と自分を比べるなんて、愚かなこと」
丹波流のその記憶にも残る演技を真似する事など自分には出来ないと、そう語っています。

けれど、お父様が亡くなって5年、その思いにも少し変化が出て来たようです。
「親父だったらどう演じていただろう?」
年齢と共に重みのある役どころの演技を求められるとき、さまざまな場面において、
義隆さんはふと、お父様のことを思い想像する場面が以前より増えてきたといいます。

一枚の写真があります。
お父様が亡くなった年、2006年12月、映画の日『中央式典』のものです。
丹波哲郎さんが『特別功労賞』を受賞し、父に代わり義隆さんが登壇したのです。 この時に着用したタキシード、これはお父様のものでした。

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サイズはピッタリでいっさい直すことなく、着用されたそうです。
そして、この時伝えた喜びのメッセージは お父様の表情が伺えるものでした。
「父のタキシードを着ていますので、父の気持ちが分かります。

父なら きっとこう言うでしょう・・・・今頃、賞をよこしやがって、遅いんだよ、
俺の凄さが分かるのが!  でも、ありがとう!」
お父様の事を熟知したユーモアいっぱいの義隆さんの言葉に会場は大うけしたそうです。
愛情溢れる、息子さんならではのエピソードです。

忙しい中でも、家族で旅することが度々あったという丹波さん一家。
貞子夫人はハワイがお好きでした。日本と違い周りを気にせずご主人と過ごされる空気は、
きっと心からホッとする安らぎのひとときだったことでしょう。
けれど、そんな時でもいつも『俳優 丹波哲郎』の妻であることを忘れる事はありませんでした。
ご自身の乗る車椅子を ご主人である丹波さんが押す事だけは拒んだそうです。
『丹波哲郎』が、それをしてはいけない・・・
丹波さんがどう見られているか、どうあるべきか、貞子夫人にとって それが一番の課題でした。
それは、俳優として売れて認知される前からずっと・・・
裕福でなかったときもお金の心配も生活もすべて貞子夫人が賄っていたそうです。

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『俳優 丹波哲郎』
お話を伺えば伺うほど、見えてくるのはその傍らには常にご家族の存在があり、
商品である『丹波哲郎』の為、如何なる時も溢れる愛情でそれを育ててきたということ。
そう、貞子夫人という太陽の光りを中心に・・・

貞子夫人が丹波哲郎さんよりも早く、1996年に他界されたあと、
丹波さんのそれまでのようにパワフルでお元気な様子が伝わって来なくなったと感じたのは、
やはり、貞子夫人の存在が大きかったからではないでしょうか・・・

以前、私が一度だけ、取材で都内にあった丹波邸に訪ねた時のことです。
ご自宅内で丹波さんにインタビューするという取材でした。
広いリビングに通され、ディレクターとカメラクルーとでスタンバイ・・・
そこに登場された丹波さんは、今までのイメージを覆すくらいなイメージ・・・
カメラの位置などもこちら側の身になって細かい事にも目を配る心配をして下さり、
すべての取材を終え、帰ろうとする際には、私達を玄関まで見送って下さり、
その後の帰り道まで心配りして頂き・・・・
親しい人をお見送りするような様子で最後まで私達を見届けて下さってたのです。
私はそんな丹波さんの優しい眼差し、そこにある本当の『丹波哲郎』の姿を背中で感じていました。
それは、ただただ優しい、ごく普通のまさしく「日本の父」のそのものでした。

今回、お話をさせて頂く中で、義隆さんはじめご家族は、
「本当は家族だけでひっそりと葬儀をしたかったんです。」
相応しいと感じたあの大きな葬儀に立ち会った私は、そんな意外なお話を耳にし驚きました。
けれど、ご家族を大事にしていた丹波さん、身内でしか分からないお父様の家庭的な人柄、
優しさに触れながら、その思いが理解出来た気がしました。

丹波家にあってそのご両親を絶えず見てきた長男、丹波義隆さんは、
最近、よくお父様に問いかけるそうです。
「どうしたらいいかな? これから俳優として・・・」
その応えはおそらく、義隆さんだけにしか見出す事は出来ないでしょう。
けれど、前にも増してお父様に似てきた様子の中にすでにその答えが隠されている気がしました。

そして、もうひとつ・・・
夫唱婦随であったからこそ成り得たのが『俳優 丹波哲郎』であるとするならば、
息子の義隆さんは、すでにご両親の歩まれた夫婦と同じ道を歩んでいらっしゃる気がします。
何故ならば、義隆さんの傍らには常に的確にご主人をサポートする奥様がいらっしゃるのです。
そう、かつての丹波哲郎さんと貞子夫人のように・・・

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『俳優 丹波哲郎』から『俳優 丹波義隆』へ・・・
時は諸行無常の中、語り継ぎ演じるバトンは、移り行く時代と共に確実にその歩を進めている、
そうした留まる事のない月日の流れをお父様の事を語る義隆さんの表情から見た気がしました。

丹波哲郎さん・・・
今頃、何処を旅していらっしゃるでしょうか・・・
もう、貞子夫人との再会は果たされたでしょうか・・・
あちらの国からも目を細め心配しながら我が子の姿を見守っていることでしょう。
そう、きっと、あの日のように・・・


取材協力:丹波義隆さんの紹介

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丹波義隆(たんばよしたか)


1955年 東京都杉並区生まれ
1973年 映画「二十歳の原点」
1974年 映画「青葉繁れる」で本格的にデビュー 「蔵王絶唱」
1976年 「Gメン'75シリーズ」「俺たちの旅」「刑事物語」
1977年 映画「アラスカ物語」で父、丹波哲郎氏と父子共演を果たす

その後も「七人の刑事」「連合艦隊」「特捜最前線」「真田太平記」
「水戸黄門」最近では「絶対零度」等、毎年数々の作品に出演

現在では、旅やバラエティ番組にも活動範囲を広げる一方で、
ハンディキャップを持っていた母、貞子さんとの生活をテーマに講演活動も行う。
趣味は、野球、水泳、スキー、写真、フルート、アルトサックス、
ラジコン、鉄道模型、パソコン、ソシアルダンス等、幅広く興味を持つ。

嵯峨 聖子のご紹介

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3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち

ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。

嵯峨 聖子HP http://www.sagaseiko.com/