市川森一さんを偲ぶ「あの人との思い出」

長崎が生んだ偉大な存在

まさに『死に様』は『生き様』
「そんな言葉を確認させて下さった先生・・・」
それが、2011年12月に亡くなった作家 市川森一さんでした。

市川森一 (享年70歳) 長崎県諫早市出身
1941年4月17日~2011年12月10日
ichikawasan01.jpg 市川森一さんとは、14年半という長きに渡り続いた情報番組でご一緒させて頂きました。
週に何度かスタジオ出演の際に、お目にかかりスタジオで同席させて頂いていた時間・・・
ある意味、とても近い距離と空間に居させて頂いていました。 
それが実はとても貴重で凄いことであったと あらためて実感することになったのは、昨年の12月10日、市川先生の訃報が届き、そのお別れの際に見た光景からでした。

市川先生の思い出を書かせて頂くにあたり、同じ番組の出演者でもちろんそのスタジオにも同席されていた、現在は参議院議員である有田芳生さんを訪ね、お話を伺いました。
月日の流れは本当に早く・・・
そのスタジオで毎日、当たり前のようにお会いしていた有田さんとも、番組が終了して以来今回が初めての対面、実に5年の月日が経っていました。
お目にかかり早速、市川先生のことをお伺いすると、
「いやぁ~、凄かったね~!」
開口一番、有田さんから告げられたその言葉、それは、私が思う気持ちと同じでした。
ichikawasan02.jpg 有田さんは、東京での葬儀が営まれる前に行われた、市川さんの故郷、長崎で営まれた告別式にも駆けつけ参列されました。
その地元でも、市川さんの偉大さを感じることがあったといいます。
葬儀の場所ではない所からタクシーに乗って出かけようとした際、そのドライバーさんは有田さんの顔を見て、こんな風に問いかけたのだそうです。
「市川森一さんの葬儀ですか?」
"その日、地元長崎では、市川森一さんの葬儀が行われる。"
そのことは、そこに参列する予定のない方々にまで当然のことように伝わっていたのです。

長崎が生んだ偉大な存在・・・
直接の関わりがなくとも地元の人にとっては大きな存在であり、その市川さんの最後の儀式が一般の方にとっても特別な日であったと感じるひとつのエピソードでした。

その後、営まれた東京での葬儀告別式。
式場には、各界の著名人の皆様が多く最後のお別れにと駆けつけました。
中でも、市川先生の作品に出演された俳優の皆さん、いわゆる大物と言われる方々から、若者といわれる方々まで 「日本を代表するすべての役者がここに揃った」と思わせるほどの人が集い、その悲報に心痛め、別れを告げたのです。
その告別式の様子からも見えた先生の存在と人柄・・・
ichikawasan05.jpg 博学多識である有田さんは、もちろん、市川森一さんが、どんな方かは知っての上でのこと・・・
けれど、それを上回るところに位置していた、それが、亡くなった後に知った市川先生の存在でした。
「凄い人だった・・・」 何故、そのことを亡くなった後に再認識することになったのか・・・
それはおそらく、私達とご一緒して下さっている時の市川先生の表情にも理由があった思います。

市川森一さんはいつ、どんなときでも我々と自然体で接して下さいました。
本番前の控え室、たわいもなく話をしているリポーターの輪に中にもさりげなく参加され、どんな小さな情報でも面白がって聞いてくださり、「へ~~~」と感心されていました。
そんな市川先生が「心から驚き、言葉を失っていらしゃる」そんなことに遭遇したことが、一度だけあります。
それは、番組に関係するパーティーがあり、その会が終了し、2次会へと流れて、スタッフ共々、市川先生と私達はある場所へ移動した時のことです。
到着した場所は「カラオケボックス」。そこは4~5人くらいが入ればもういっぱいになるくらいの小さな部屋・・・まさに「BOX」というに相応しい空間でした。
部屋を見るや否や市川先生は、こんな一言を・・・
「ここは何?」
「先生、これはカラオケボックスって言うところです。」
「ここで何をするの?」
「ここで歌を唄うんです。」
「へ~~~~」
いつもの「へ~~~」と言う言葉で納得されるまでに少し時間がかかりました。
まだ、"カラオケボックス"が、出始めの頃の出来事です。
カラオケと言えば、クラブやバーで歌うことが通常だった時代の話です。
しかもその部屋は私達でさえ、愚痴を言いたくなるような狭さ。
そんなところへ市川先生をお誘いしてしまい、
「どうしよう・・・先生をこんなところへお連れしてしまった!」
私は内心はらはらと先生の表情を気にしたことを今でも記憶しています。

けれど、そんな心配をよそに先生は、「へ~~~」という驚きの表情とともに、しばらくその部屋を見渡したあとは、すっかり馴染み楽しそうに過ごされていました。
何事も面白がってくださる先生に私は胸を撫で下ろしました。
それ以上に、こんなところもあることを興味深げに見てくださった事に、私は密かに感謝していました。
これが、市川先生が初体験した"カラオケボックス"との出会いでした。
ichikawasan03.jpg 今となっては貴重になった市川先生との記念写真。
今回、使用するために古いアルバムを眺めてみると、たくさんの場所で同席させて頂き、写真が数え切れないほどあることが分かりました。
写真で見る先生の表情は、いつも本当に楽しんでいらっしゃる様子が垣間見られる微笑ましいものばかりです。
あの葬儀で見せた凄い市川先生は、いつどの場にもおいても違和感なく溶け込んで下さる、縦横無尽な先生でした。

市川森一さん1941年(昭和16年)〜2011年(平成23年)

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市川森一

出身地:長崎県

『主な個人受賞』
大谷竹次郎賞(1979年) 「黄金の日々」
芸術選奨文部大臣新人賞(1981年) 「港町純情シネマ」
第1回向田邦子賞(1983年)  「淋しいのはお前だけじゃない」
芸術選奨文部大臣賞(1989年) 「明日」「もどり橋」
日本アカデミー賞最優秀脚本賞(1989年)   「異人たちとの夏」
モンテカルロテレビ祭最優秀脚本賞(1999年) 「幽 婚」
日本アカデミー賞最優秀脚本賞(2001年)   「長崎ぶらぶら節」
ゴールデンチェスト国際テレビ祭最優秀脚本賞(2003年)
NHK放送文化賞(2003年)
紫綬褒章(2003年)

『主なテレビ作品』
「傷だらけの天使」「港町純情シネマ」
「淋しいのはお前だけじゃない」「黄金の日々」
「山河燃ゆ」「夢暦・長崎奉公」「幽婚」「風の盆から」

『映画』
「異人たちとの夏」「長崎ぶらぶら節」「黄色い涙」「花影」
「その日の前に」

『舞台』
「黄金の日々」(歌舞伎座)「ANZUCHI」(銀座セゾン劇場)
「水に溺れる魚の夢」(紀伊国屋ホール)
舞踊劇「唐人凧」(中日劇場)
「ヴェリズモ・オペラをどうぞ!」(1998年9月 銀座セゾン劇場)
「リセット」(1999年4月劇団青年座公演)
舞踊劇「魔笛」(1999年9月 中日劇場)
舞踊劇「生き物地球紀行」(1999年7月新国立劇場)
ミュージカル「海のサーカス団」(2003年3月 アルカス佐世保)
「乳房」(2003年3月劇団青年座公演 紀伊国屋ホール)
舞踊劇「踏絵黙示録」(2003年9月中日劇場)
ミュージカル「銀河鉄道の夜」(2004年4月わらび座)
朗読劇「蝶々さん」(2004年4月紀尾井ホール)
舞踊劇「鯨に帆かけて」(2008年中日劇場)

『小説』
「夢暦長崎奉公」(光文社)
「蝶々さん」(講談社刊行中)
「幻日」(長崎新聞 連載中)

脚本家としての活動のみならず、ワイドショー番組に
コメンテーターとして出演するなど幅広く活動。

2011年12月10日 肺がんの為、死去。

 

人柄から溢れ出す"言霊"・・・

2011年3月東日本大震災、この大惨事に遭遇し、市川先生はあることを考えていらしゃいました。
それは、あの大きな揺れの中、地元住人に津波の来襲と高台への非難をひたすら呼び掛け続けた女性、宮城県南三陸町で防災放送の担当職員だった遠藤未希さんの話です。
津波がいまにも襲うとしているその現場、防災対策庁舎の2階で最後の最後まで非難することを呼びかけ続けた未希さん、実は秋には結婚も控え準備も進めていたといいます。未希さんの呼びかけで助かった人も多くいたことでしょう。
現に海岸に居たご両親も最後まで声を聞いていたと言います。
でも、途中で途絶えた放送とともに未希さんの姿はなく、3階建ての庁舎は赤い鉄筋だけが無残に残る姿となってしまったのです。 
「この惨事の中での出来事は記録にしなくてはいけない。」
その未希さんの勇敢な尊い命に関して市川先生はペンを執ろうとしていらしたのです。
そして、"映画"を作りたい。その構想があることを、先生は有田さんに話をしていました。
さらに完成した際にはと、なんと主題歌を唄う歌手まで決めていたのです。
先生の頭の中に思い描いていた構想・・・
ご一緒した情報番組で、そうした災害の現場に駆けつけ取材した我々の姿をスタジオでご覧になり、毎回コメントをして下さっていた先生だからこその切り口、その視点で見たそのドキュメントが、どんな風に描かれたものになるはずだったのか・・・
きっと市川先生ならではの、特別な作品だったことでしょう。
ichikawasan06.jpg 市川先生が番組のスタジオにいらっしゃる時は、ひとつ楽しみがありました。
先生はかならず"プロポリス"の飴を袋ごとお持ちになり、出演者に配って下さるのです。
VTRを見ている間、乾燥しているスタジオには喉を潤す恵みの飴になっていました。
いつしか、それが日課になり先生がスタジオにいらっしゃる時には密かにワクワクしたものです。
考えてみれば、そんなところにも先生のさりげない心遣いがあったのでしょう。

ご一緒させて頂いていた番組が終わり、関係者の皆さまとはほとんどお会いする機会が無くなってしまいました。
皆それぞれの仕事や現場、有田さんもまた同じで、先生とは「飲もう!」とどちらからともなく誘いお酒を酌み交わす時くらい・・・
それでも、2009年、有田さんの第2の人生の挑戦である衆議院選挙の際には応援に駆けつけ、市川先生は声をはらし応援演説にも力を貸して下さったといいます。
しかし、残念ながら、その選挙で落選した時、先生はこんなことを仰っていたそうです。
「有田さんの今後の生活を考えなきゃなぁ・・・」
新たな旅立ちをしようとする時、どんな状況においても不安が寄り添います。
そんな、人の心を知ってか知らずか、市川先生は心配して言葉をかけていたのです。
「嬉しかったなぁ・・・」その時のことを有難く思い、懐かしく語っていた有田さん・・・
"言霊" 言葉の意味を誰よりも分かっていらっしゃる先生ならではの思いやりでしょうか・・・
さりげない、けれど大きかったその一言、有田さんは感謝の気持ちを忘れず抱いていました。
ichikawasan04.jpg 最後に・・・
市川森一先生が、ご自身の命と向き合い残された文章をご紹介させて下さい。
短い文章ですが、先生の人柄のすべて語られていると思います。

『 去り行く記 』

ふりかえれば虹。
思い浮かぶ顔はみんな笑顔。
なんて素敵な人間たちと出会ってきたのだろう。
どの顔も、みんな私の人生の宝だ。

「僕が、ドラマのモデルにした女性たちには、だれも深く関わった女性はいない。
みな、何処かですれちがったか、振り返ったかした程度の者たちだった。
それゆえに、面影が、ひどく悲しい。いたたまれなくなるほどに悲しい。」

人生の本質的な明るさを見失わないように。
どんなに孤独で暗い間路にも、光明は見出せる。それが、夢みる力だ。
私は、弱い者ではない。

もはや、すべてが無力だ。
ただ、愛する者の微笑だけが私の支えだ。

肉体の苦痛の極みに人間はそれを言葉にしようとはせぬ。
慰めの天使の舞い降りてくるのを待つのみ。

神が見えてくる。
悲しみが近づくほどに。

「この世には、誰一人、恨む人などいない。
そうだ、私には、だれをも愛する力がある。
それだけでも、死んで行く意味をみつけることができた。」

「市川森一 著」

本当の強さと優しさをその姿と言葉で見せてくださった市川先生へ・・・
感謝の気持ちとともに。

取材協力:有田芳生さんの紹介

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有田芳生(ありたよしふ)


1952年2月20日 京都府出身

出版社勤務を経て86年からフリーに。
『朝日ジャーナル』で霊感商法批判キャンペーンに参加。
"都はるみ""宇崎竜童""テレサ・テン"などの人物ノンフィクションを 『AERA』 『週刊朝日』 『サンデー毎日』に執筆。
日本テレビ『ザ・ワイド』にコメンテーターとして12年半出演。
2007年参議院選挙 2009年衆議院選挙に
"新党日本"から立候補

著 書
「『コメント力』を鍛える」
「私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実」
「歌屋 都はるみ」
「メディアに心を蝕まれる子どもたち」

嵯峨 聖子のご紹介

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3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち

ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より、福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
2011年1月より、読売テレビ『す・またん!』にレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。

嵯峨 聖子HP http://www.sagaseiko.com/