相澤 秀禎さんを偲ぶ「あの人との思い出」

相澤会長らしい旅立ち

「午後一時を過ぎました・・・
まもなく、皆様とのお別れ、出棺の時間を迎えます。
いま、式場より、多くの人にささえられた棺が見えてまいりました。
棺の中には、サンミュージック会長、相澤秀禎さんが眠っていらっしゃいます。
棺をささえる、ゆかりの人々の顔、相澤会長と苦楽を共にした方々・・・
どの表情にも悲しみと寂しさが滲んでいるようです。

そして、この式場には旅立ちの瞬間を見守ろうとする、多くの方が駆けつけました。
その弔問の数を見ても、どれだけ多くの人に慕われ、愛されていた方だったかが伺えます。
お迎えの車の中に、今しっかりと棺が納められました。 出棺です・・・・
あっ、そして、たった今、この式場に一筋の光が差しました!
今日は朝からどんよりとしたお天気、午後からは雨模様という予報でしたが、
その雲間が切れ、今この式場には明かりが差しています!まるで、相澤会長の旅立ちに際し、
お見送りの為のライトを照らしているかのように・・・

どんな時も笑顔で、明るく人と接してきた相澤会長・・・
そのお人柄を表すかのような・・・最後、いま出棺の時、サンミュージックのサン、その太陽の光が
この式場いっぱいに降り注ぐ中、・・・いま、旅立ちの時を迎えています。」

2013年5月28日午後1時、相澤秀禎サンミュージック会長の葬儀告別式。
もし、私がその場でリポーターとしてマイクを持ち、現場で取材をしていたなら、
きっとこんなリポートをしていた事でしょう。霊柩車のクラクションが鳴った出棺の瞬間、
光が差し込み、式場全体が明るくなったことへの驚きは、そこにいたすべての人が感じた、
「さすが、相澤会長・・・」そう思わせるエピソードであったと思います。

CIMG0057.jpg その知らせを聞いたのは1本の電話からでした。
電話の主はサンミュージック秘書室の丸山さん、5月24日の午後の事でした。
ただ、あまりに突然の内容、「会長の死去」の知らせに、動揺の中、
現実のものと受けとれず、ただ聞いていた、そんな受け止め方でした。
報告の際「嵯峨さん、ごめんなさい・・・」 そんな言葉を聞いた気がします。
それは、「今までお伝えできなくて・・・」という丸山さんの優しいお気遣いでした。

この一年間、私は相澤会長とお目にかかる機会が幸せなことに3度もありました。
去年の夏、アポイントメントも取らず、突然、サンミュージックを尋ねた時。
現在 私が出演している福岡放送『めんたいワイド』の芸能情報で度々、
サンミュージックのタレントさんを取り上げることがあり、その度に会長への
ダイレクトにお掛けする携帯電話への失礼に対し、一度ちゃんとご挨拶に伺おう、
そう思い、足を運ばせて頂いたのです。
会社の玄関先でまず丸山さんへ連絡、それすらも突然の事にも関わらず
 「あっ、嵯峨さん!どうぞいらしてください!」
お仕事の合間であるはずの時間にお約束もしていない私を快く迎えてくださり、
それは、こちらが驚くほどの対応でした。
そして、笑顔で迎えてくださった相澤会長・・・
「ちょうど良かった!時間はあるの?一緒にランチしょう!」
その時の表情、いまでも私の目にしっかりと焼きついています。
その優しく穏やかな会長のお人柄と会社の空気感が『サンミュージック』のすべてと
言っても決して過言ではありません。

『サンミュージック』を語る上において、けして欠かせない人がいます。
それは、いつ何時も相澤会長の傍らにいて右腕になっていた福田時雄さん。

現、サンミュージックブレーンの顧問です。
私がテレビの取材でよくお世話になってい時は、福田専務と言っていたその人です。
元々、ゴールデンリュークスというジャズバンドのドラム担当でダンスフロアやショーの
バックでバンド活動をしていた福田さん。
かつては自らもプロのスティールギターの奏者として演奏活動を行っていた相澤会長は、
ある時、まだバンドマンだった福田さんに対し、こんな事を言ったといいます。
「You 、マネージャーに向いてるよ!」 昭和41年、福田さんが35歳の時です。

相澤会長はその頃から独自の眼力でまだ若き福田さんの才能を、そして、今後一生
関わる人になる事をすでに見抜いていたのでしょうか。その頃、年齢的にもその後の
音楽活動に多少なりと不安を抱いていた福田さんは、相澤会長の一言で転職を決め、
共に歩んで行く覚悟を決めたのです。その頃から相澤会長の印象は、
「インパクトのある人」、そして「信用の出来る人だった」と福田さんは語っています。
その後、スケジュール及びチーフマネージャーの相澤氏、現場マネージャーの福田氏と言う
このお二人による体制で今日に至る芸能事務所『サンミュージック』が立ち上がったのです。
aizawakaicyou02.jpg それぞれの人生の半分以上を共に歩んできた福田氏と相澤会長。
喜びのときも苦しみにときも、その絆は他の誰よりも深く結ばれていたことでしょう。
葬儀のあと、その福田さんにあらためてお話を伺いました。

私が知る限りでは、いつも 穏やかであった相澤会長、けれど、
やはりそんな会長も人知れず悔しい思いに心痛めていたことが多々あったと言います。
その一つには、通夜の席にも訪れていた桜田淳子さんの統一教会への入信。
当時は毎日のように新聞やテレビを賑わせ、世間を騒がせた問題。
「人に迷惑をかけてはならない」という信念の相澤会長にとっては
この上ない程の心の痛みだったことでしょう。

ただ、そんな時でも、桜田淳子さんへかける愛情は変わらず、
彼女が信心する統一教会とはいったいどういうところなのか、
会長はわが身を持って調べてみると言い30万円もの講義料を支払い受講していた事も
あると言います。
周りからの情報だけに振舞わされず如何なる時も所属タレントを大事に思う相澤会長の愛情。
それは、並々ならぬものでした。

その一つには、自宅にデビュー前のタレントを住まわせ、寝食を共にするというもの。
親からあずかったお子さん達を愛情を持って育てる。
毎日の挨拶や食事、ジョギング、日常のなんでもない生活から共にし、精神的に一人の人間として
恥かしくない人を育てていこう。仮にデビューしてタレントとして花が咲かなくとも人としての成長を
見たとき、親御さんから感謝して頂けるよう育てていく。その信念を最後まで貫いた会長。

その結果、100人からいる所属タレントが誰も問題を起こさず警察等のやっかいになったことがない、
それが『サンミュージック』の自慢でした。 「だからこそ、ガックリ来ていたんだよね・・・・」
福田さんがあらためて、そう振り返ったのは酒井法子さんの事件でした。
悔しい思いに振るえ歯をくいしばり、ただただ窓の外を見ていた・・・そんな会長の姿を
何度となく目撃した福田さんは「社長と言う仕事はなんと大変なんだろう・・・」そう思いつつ
如何なる時もそっと見守っていたと言います。二人の関係でしか分からない、二人だからこそ
理解できる世界がそこにあったのでしょう。

相澤 秀禎さん1930年(昭和5年)〜2013年(平成25年)

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相澤 秀禎

出身地:神奈川県

相澤秀禎(サンミュージック創業者) 享年83歳
1930年1月30日~2013年5月23日  神奈川県横須賀市出身

法政大学在学中にバンド「ウエストキャラバン」を結成、
プロのスティールギター奏者として米軍キャンプをはじめ、
ウエスタンカーニバル等で演奏活動を行う。
28歳の時「ウエストキャラバン」から山下敬二郎をデビューさせプレイヤー兼マネージャーとして活躍する。
その後、
佐々木功、佐川満男、黛ジュン等、マネージャーに専念。
1962年 32歳の時に名古屋で西郷輝彦をスカウト、
1964年日本クラウンよりデビューさせる。

1968年 サンミュージックプロダクションを設立
      1号タレントとし、森田健作をデビューさせる。
その後、 野村将希、桜田淳子、松田聖子、香坂みゆき、
       早見優、岡田有希子、酒井法子、
       安達祐実、塚本高史、ベッキー等、
       多くのタレントを育成し輩出する。
2004年 創業以来、36年間務めていた社長の座を
       長男 相澤正久氏に譲り、会長に就任
       生涯マネージャーとして全国のオーディションなど
       にも足を運び、新人発掘に意欲を燃やし続ける。

2013年 5月23日 膵臓ガンのため、83歳で死去
       戒名 「幸響院讃譽秀偉浄楽清居士」

家 族

私が最後に相澤会長にお目にかかったのは去年の12月14日。
番組の企画でタレントのスギちゃんにインタビューをお願いしサンミュージックにお邪魔したのです。
丸一日取材日として次から次へ各取材をこなしていたスギちゃん。
私の順番まで少々待ち時間があるということで、秘書の丸山さんが
「じゃあ、嵯峨さん会長室でお待ちください!」
仕事でお伺いさせて頂いているのに会長室へ通された私は大変恐縮しながらも、しばし相澤会長と
お話が出来ることは楽しみのひとつでもありました。

「お茶にしますか?それとも珈琲?」
そんなお気遣いの元、このとき頂いた珈琲・・・それが、会長と私の最後のシーンになりました。
珈琲にはお砂糖でなく少し高級な蜂蜜を入れて召し上がる会長。「これが美味しいんだよ!」
得意気に仰る会長に甘えて、「私も真似していいですか?」厚かましくも、会長と同じ蜂蜜を頂き、
つかの間ご一緒したひと時。
いま思えばそれは、もうすでにガンが進行していた会長との時間を図らずも
さり気なく与えて下さっていた丸山さんの心配りでした。
病気の事を知りつつ周りに気づかせないように振舞っていた数人のスタッフのお気遣いは、
後になって振り返るとこちらが申し訳なく思う程の完璧なまでの心配りでした。
ss2012_019[1].jpg 「スギちゃんがね、いま頑張ってくれてるんだよね・・・!ブログのアクセス数も凄いんだよ!」
所属タレントの活躍は誰しもが嬉しいと思います。
けれど、これほどまでに喜びを無邪気に表現する相澤会長。
それは、聞いているこちらが羨ましくなるほどの満面の笑みでした。
タレントの喜びは自分の喜び、そしてまた悲しみもそうであったに違いありません。
そのひとつには、おそらく最も悲しい出来事であった岡田有希子さんの自殺。
その後、私が会長を密着取材した際、毎年常持している手帳にはかならず、有希子さんの写真を挟み、
ハワイ等、旅行先の眺めの良い所では手帳開いて彼女にも眺めさせて語りかけているんだというお話を伺いました。
現場となった以前の事務所、その会長室、そして新しくなった事務所の会長室にも微笑む有希子さんの写真が飾られていました。

会長にとっても本当であれば思い出したくない悲劇。けれど、
事件以降、何年経っても一日も忘れることなく岡田有希子さんを想い過ごされていたのです。
「本当の事を言おう。逃げる事はやめよう。ありのまま、正直に伝えよう。」この事件に際し、相澤会長は
右腕である福田さんにこう言っていたと言います。いつどこでお目にかかっても穏やかで変わりない相澤会長、それは、正直で真っ直ぐで嘘がなく真面目なお人柄だったからでしょう。

すでにガン告知を受けていた闘病中、相澤会長は歯の治療を施していました。
しかも数百万円かけて、真っ白なインプラントにされていたのです。
会長は最後の最後まで「生きる」ことを止めなかったのです。
『生涯現役』そんな言葉がぴったりの会長。

ある時、もう数年前の話ですが、突然、私の携帯電話に会長からお電話がありました。
「何だろう?」と受けてみると「聖子ちゃん、今度デビューする新人歌手なんだけど・・・」
単純に近々デビューする歌手の売り込みでした。
会社のトップである立場の方からのプロモーションに
「相澤さんが自らプロモーションしていらっしゃるんですか?」と驚いた記憶があります。
その時に仰った相澤会長の言葉は今でも鮮明に覚えています。
「いや、僕はね、生涯一マネージャーなんだよ・・・」そう、さらりと仰った会長の言葉。
それは私にとってはあまりにも重く素晴らしいメッセージで、これ以降、生きていくための私の教訓となりました。

お話を伺った福田時雄氏は相澤会長の悲報に接し「何日も泣いた、泣けるだけ泣いた・・・」そうです。
歩んできたほとんどが共に過ごされた時間なのだから無理もないです。
そして、サンミュージックのスタッフの皆様もまたこの悲しみを同様の思いで受け止めていらっしゃる事と思います。
何故ならば、すべてのスタッフが皆、家族だったのですから・・・

相澤氏、福田氏二人で始めた『サンミュージック』は今では所属タレントも100人を超えています。
社員もどんどん増え、今117名いるそうです。
時折現場でお目にかかるマネージャーさんは、昔からお目にかかっていた方もいますが、
サンミュージックの社員の方はほとんどが辞めることなく、会社の為に一途に尽力尽くしていらっしゃる方が多いのだそうです。
それはきっと相澤会長が最後に託した言葉の中に記されていた『家族』だからということなのでしょう。
aizawakaicyou01.jpg 『家族』を愛し、『家族』を大事に想い一生をたくさんの『家族』と共に過ごされた相澤会長。
亡くなられてしばらくした後、サンミュージックを訪れたことがありました。
会長室はその主がいないことをまだ自覚していないような不思議な空間でした。
でも、以前とまったく変わらないことがありました。
それは、出迎えてくださったスタッフの皆様の笑顔です。

そう、それはあの多くの人が訪れた葬儀の際も同じ。
サンミュージックのスタッフの皆様は皆、笑顔でした。
悲しみを封じまるで普段どおり、お客様をお迎えするがごとく笑顔でした。
きっとそこにも相澤会長の教えや教訓、そして魂が息づいていたのではないでしょうか。

半世紀以上に渡って多くのタレント、そして社員を育て見守ってきた相澤秀禎会長・・・
今頃、会長はどこで何をしていらっしゃるのでしょうか・・・間違いなく言えるのは、
あの出棺の時の様に、雲の間から明るく素敵な笑顔を覗かせ、愛してやまなかった
『サンミュージック』を今日も穏やかな表情で見守っていらっしゃることでしょう。
もうひとつの大きな"太陽"となって・・・

『幸響院讃譽秀偉浄楽清居士』
(幸いなる響きの音楽で人々の心を癒し、多くの人々を幸せな心に導き多くの尊敬を集めた最高の人)

相澤会長の優しさに触れ「本当の強さとは何か」を知りました。
心から有難うございました。 これまでのたくさんのご恩に感謝して・・・・。


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嵯峨 聖子のご紹介

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3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち

ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より、福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
2011年1月より、読売テレビ『す・またん!』にレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。

嵯峨 聖子HP http://www.sagaseiko.com/