島倉千代子さんを偲ぶ「あの人との思い出」

人生いろいろ

平成25年年11月15日。
島倉千代子さんが、歌手人生の生涯において夢にまで見ていたであろう、その日。
この日は、元気であれば予定していたスタジオで南こうせつさんの手がけた楽曲の
レコーディングを行う日でした。
(しかし願い叶わず、前日14日に葬儀告別式が営まれ、結果的に奇跡的に制作された『からたちの小路』は、一ヵ月後に緊急発売となりました。)

そして、それからちょうど10年前の同じ11月15日。
平成15年のこの日は私にとっては唯一、島倉千代子さんとの忘れらない一日となっていたのです。

BV5O0152.jpg 島倉千代子 東京都品川区生まれ 1938年3月30日~2013年11月8日 (享年75歳)

一枚のFAXで届けられた紙に託された、メッセージ・・・
平成15年11月15日。
土曜日であったこの日の夕方、自宅にいた私は電話口から流れるFAX受信音に耳を傾けていました。
その後、送信されたFAXを手にし目にした際の驚き。
ただただ自分の目を疑いました。メッセージの最後に書かれた直筆の「島倉千代子」の名前。
それは紛れもなく島倉さんご本人からのものでした。
一瞬、何が起きたのか頭が整理出来ず、慌ててした行動は送信元である番号へかけた確認の電話。
しかしその番号は留守番電話になっていたため、すぐには確認が出来ず・・・
「なぜ、島倉さんが私に・・・?本当に島倉さん?」
しばらく他の事が手につかず、現実の前でただ呆然としていた事を覚えています。

程なくして、再度電話のコールする音が・・・今度はFAXではなく電話です。
電話口に出てみると
「嵯峨さん?島倉です。」
それまで電話でお聞きしたがない声でしたが、
そのトーン、柔らかな声は、まぎれもなく島倉さんご本人のものでした。
FAX受信の際よりも、さらにボルテージが上がってしまった私。
無理もないです、島倉さんご本人なんですから!
その後、訳が分からないままお話は進み・・・気が付けば2時間近く・・・・会話のほとんどは
島倉さんがリードし、さまざまな内容でしたが今思い出してもそれは夢のような時間でした。

tegami.jpg 何故、突然、島倉さんからお電話を頂いたのか・・・
実はその電話でのやり取りをする少し前、私は担当していた日本テレビの情報番組の企画で、
歌手生活50周年にも合わせた島倉千代子さんの密着取材を担当し数日ご一緒していました。
島倉さんが幼い頃から馴染みであったお菓子屋さん、通った小学校、神社、テレビ局等、生まれ
育った品川で待ち合わせをし、すぐに現場での取材となりました。
島倉さんからのメッセージの中に書かれている「お菓子屋さん」は、この時に訪れた場所です。
そして、取材の最後はインタビュー。
『人生いろいろ』の曲にまつわるインタビューということもあり時間の要するものでした。
ただ、これまで人の何倍もの苦楽を体験をしていらした島倉さんに、
たった数分で人生のお話を伺おうとすることは、とても無謀な事でもあります。
現にインタビューが始まってから1時間過ぎた頃、カメラのテープチェンジが行われたのですが、
1時間の時間を要してもまだデビューに至るまでのお話しか聞けていないのです。
人生において本当に波乱万丈のさまざまな出来事を体験してきた島倉さんに短時間で
そのすべてを伺うなんて到底無理な話です。
「このあと島倉さんの『人生いろいろ』を伺うのに、いったいどれだけの取材時間が必要だろう?」
そう思った私は、いったんインタビューマイクを外し、島倉さんにその場で謝罪しました。
「島倉さん、私達は島倉さんの人生をたった数時間でお聞きしようとしています。
島倉さんのこれまで体験なさったことは、この数時間で聞けるようなお話ではないと思います。
だから私達はとても失礼なことをしていると思います。本当に申し訳ありません。
ですが、ここでの時間で 精一杯お話を伺わせて頂きたいと思っていますでので
どうか宜しくお願いします!」
失礼ながら目の前の島倉さんにそう告げ頭を下げた私は、何故か涙がでそうになりました。
おそらく私としては "歌手 島倉千代子さん"へのインタビューの大役に他ならぬ責任と重圧を
感じていたのだと思います。それはかつて私自身が歌い手であったという事も大きく作用しています。
「分かりました」そう返事をしてくださった島倉さんは私の言葉に静かに頷かれていました。

気が付けば・・・
インタビューの時間は4時間にも及んでいました。おそらく普通の取材で考えればとんでもなく長い
時間でその場で事務所側のマネージャーからクレームが入ってもいいくらいです。
しかも、あとになってディレクターからの事後報告で知らされたのですが、
そのインタビューの開始時には、もうすでにその日お約束していた取材時間は大幅に押していて
残されていた時間は1時間もなかったと言うのです。
スタッフからそれを聞いたとき、私は、ぞ~っと血の気が引いたのを覚えています。
「なんで!なんで、そんな大事なこと早く言ってくれなかったの!」
でも現場は、まったくそんな違和感を感じることのない現場だったのです。
島倉さんもスタッフの皆様も一切不快な様子も見せず応じて下さっていたのです。
おそらく周りに居るマネジャーの方は気にはされて
いたでしょうけれど、それすら、こちらには
気が付かないよう配慮していたのは、間違いなく島倉さんからの空気感だったと思います。
その時のインタビューは、こちらが聞く以上に聞きにくい私生活の事まで詳しく島倉さんのほうから
詳細に語って下さいました。
終了した際の私は、伺った人生のお話以上に島倉さんの
心の広さや温かさを感じ、言いようのない感謝の気持ちでいっぱいでした。

shimakura_2.jpg それから数日後、放送された島倉さんの密着取材『人生いろいろ』のオンエアは、
高視聴率をもたらし、一般の視聴者からも内容についてのコメントを頂くまでとなりました。

そして、それは同じ情報系の番組関係者にも波及しオンエア後、島倉さんの元には他局の番組の
関係者からもインタビューに応じてほしいとする問い合わせが殺到したのだそうです。
ところが、後にも先にも、ここまでのインタビューに応じたのは我々の番組が最初で最後。
それを聞いたのは、突然頂いた、あの島倉さんからの電話での事でした。
「嵯峨さん、あれから本当にたくさんの番組からインタビューの依頼がありました。

でも、すべてお断りしました。
私の人生のお話は、嵯峨さんとのあの時ですべて話しました。
人生の話なんてそうそう何度も話せるものではないですよね。
私は嵯峨さんとのインタビューで全部お話させていただいたんですよ。」

電話の向こうから届けられる島倉さんの柔らかい声と裏腹に頑なまでの真摯な島倉さんのご考慮と
ご配慮に心から感激すると同時に島倉さんのそうした生き方に胸が熱くなりました。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」私からは感謝の言葉を何度も何度も伝えさせて
頂きました。電話での2時間の内容はそうした取材での事、歌手としての姿勢、女性ならではの
グルメの話、「美味しいスパゲッティのお店があるので今後一緒に行きましょう!」時間も忘れて
お話していました。今思い返しても、あんなに誇らしい時間はありません。宝物で貴重な時間でした。

島倉さんからのFAXにある「かわいいうさちゃんのアイビー鉢植」とは、その感謝の気持ちを
形にしたいと思い、送らせて頂いたお花です。生花店に行き、バラやゆり・・・高価なお花をと
考えていたのに、何故かアイビーのグリーンで作られたウサギを見た瞬間、
「あっ、これを島倉さんに送りたい!」アイビーのウサギが島倉さんの元で微笑んでいてほしい・・・
瞬間的にそう思ったのです。

島倉千代子さん1938年(昭和13年)〜2013年(平成25年)

shimakura01.jpg

島倉千代子

出身地:東京都出身

島倉千代子 享年75歳
昭和13年3月30日~平成25年11月8日(享年75歳)
東京都品川区出身

昭和29年 第5回コロムビア歌謡コンクールに出場
      「涙のグラス」を歌って優勝、専属となる。
       以後、数々のヒット曲を生み出し、
      「コロムビアの専属歌手」として常に君臨する。
昭和30年 「この世の花」でデビュー
昭和32年 「東京だよ、おっ母さん」150万枚のヒット
        映画化もされ、主役を務める。
昭和33年 「からたち日記」130万枚のヒット
昭和43年 第10回日本レコード大賞 特別賞受賞
昭和50年 第17回日本レコード大賞 特別賞受賞
昭和62年 第20回作詩大賞 大賞受賞
昭和63年  「人生いろいろ」130万枚のヒット
       第30回日本レコード大賞 最優秀歌唱賞
平成元年 第8回メガロポリス音楽祭 演歌大賞受賞
平成 6年 第36回日本レコード大賞
       美空ひばりメモリアル選奨受賞
平成 9年 第39回日本レコード大賞 功労賞受賞
平成10年 第9回日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞
        日本赤十字社 金色有功賞受賞
平成11年 第16回ベストジーニスト賞受賞
        平成11年年度秋の紫綬褒章受賞
平成12年 第25年経済界大賞フラワー賞受賞
平成25年 11月8日 肝臓がんのため死去

昭和32年紅白歌合戦初出場、
以後平成16年まで、通算35回出場

戒名「寶捷院千代歌愛大姉」
  ※戒名の2つ目の捷(しょう)は正しくは女へんです

歌手 島倉千代子として・・・


島倉さんの訃報はあまりにも突然でした。
ご病気と闘っていらっしゃることなどまったく知らず、お元気なものとばかり思っていました。
急遽行われたコロムビア担当者の報告会見。伝えるテレビを食い入るように眺めました。
「どんな状況だったの?どんな風に最後を迎えられたの?」 ひとときでも、取材で、または
プライベートの時間でご一緒させて頂いた私にとって その知らせは大きな出来事でした。
島倉さんの訃報についてはコロムビアのA&C本部 副本部長の蔵田佳隆さんが会見に
立ち会っていました。おそらく取材現場のどこかではお目にかかっていた方だと思います。
会見での蔵田さんの表情はただ、業務としてマスコミに伝えているだけではないものを感じ、
それは何故なのか、出来ればすぐにでもお話を伺いたい!そう思う私がいました。
それから程なくして、蔵田さんとお目にかかる時間を頂きました。お約束をした場所は、
コロムビアからも近いホテルのカフェテリア。偶然にも蔵田さんが結果的に最後に島倉さんと
会われた場所でした。しかも当時とまったく同じテーブルでの面会となったのです。

BV5O0137.jpg 1996年日本コロムビア入社の蔵田さんは宣伝企画部などを経て2002年頃から
島倉さんとの関わりを持つことになったそうです。そして、翌年2003年からこの数年、
島倉さんの総合的な方向性など何度も話をする機会があったそうです。
その際、担当ディレクターとしては毎年、年の初めの挨拶に始まり仕事のディスカッションをする
スタッフの中心として尽力されていました。そうした中、闘病をしていた島倉さんとは
ごく自然にこんな会話がなされていたと言います。
「自分がもしそうなったら(最期を迎えたら)いっさいお任せします。」
「皆様の手を煩わしてしまうので"お別れ会"はしないでほしい。」
「葬儀も大げさにならないように・・・」
何時そのときを迎えるとも分からない中、そうした最期を託されお願いされた蔵田さん。
ちょうど私と面会したお席に島倉さんがお座りになっていたということもあってか・・・
蔵田さんは時折、その時の様子を想い出される瞬間もありました。歌手として芸能界では、
大御所である島倉千代子さん、これまでどれほどの多くの人との関わりがあったでしょうか。
けれど、「その島倉さんの人生の最後に、この蔵田さんが側にいてくださって良かった!」
島倉さんを一アーチストとしてでなく一人の人間として女性として受け止めていらした様子を
蔵田さんとのお話から感じ、私はふと安堵していました。数々の大変な出来事に遭遇し、
ある時は人が信じられない事にも出会った島倉さんが心から頼れる方が最後にいたのは
本当に良かった。
心の中でそう呟いていました。そして、蔵田さんに関してはもうひとつ、
こうしてご縁となる方だったと思うエピソードとして、蔵田さんのお父様の存在があります。
お父様もまた日本コロムビアに勤めてされていて、島倉さんのデビュー当時に関わって
いらしたと言うのです。そして、まだ蔵田さんが子供の頃、蔵田さんのご自宅に島倉さんを招いた事が
あったというお話を聞き、親子二代に渡って、島倉千代子さんと関係していたという話を聞き、
人の出会いのご縁の不思議さを感じざるを得ませんでした。

どの歌手よりも早く楽屋入りし衣装など身繕いを調え、本番に備える島倉さんのプロとしての
心得。礼儀に関しては厳しく、怒りはしないけれどきちんと叱ってくださる気遣い。そして、
ご自身の闘病の際には一言も痛いとも辛いとも言わず、人知れず戦っていらした姿勢。

蔵田さんから断片的に伺う島倉さんのお話、そのどの内容からも島倉さんの優しさ人としての
気遣い、真面目な人柄が伺えると同時に私が接した際の島倉さんもまたそうであったと重ねて
みる時間となりました。
そして、蔵田さんと私とまったく同じ事を聞いていたお話もありました。
それは『声』の話です。
島倉さんはいつもその時々の「自分の年齢の"声"を探している」
そうお話されていたそうです。それは私がお電話でお話を伺った際のそれと同じでした。
当時65歳であった島倉さんは「60代の歌う声を探しているの、その為にボイストレーニングを
しているんです。」そんなことを話してくださいましたが蔵田さんも何度も聞いた言葉だそうです。
島倉さんは最期まで、歌手であるご自身のあるべき「声」を探し、
「歌手 島倉千代子」を全うされたのです。
そうした島倉さんとの想い出の話をする中、時折、涙で滲みそうになるのをこらえる蔵田さんの
表情から、最後に島倉さんがご自身のことをこの蔵田さんに託した理由が分かった気がしました。
謙虚で真面目で人として信じられる人との対話。たくさんの人との交流を感は得ると簡単なようで
島倉さんにとってはとても難しい人選だったのかも知れません。
そして、もうひとつ、最後の最後に、私は本当に良かった、と感じたのは、遺作となる作品を
南こうせつさんに託したことです。

『からたちの小径』 作詩 喜多條 忠 ・ 南こうせつ / 作曲 南こうせつ

なつかしいうたを  誰かがうたってる
遠い日の思い出が よみがえる
駅から続く  からたちの小径を
手をつなぎ  寄り添って あるいたわ

・・・・

帰らない日々を くやみはしないけど
人生は流れいゆく  旅景色
たった一度の  ときめきの香りが
夢見るように 淋しそうについてくる

あぁ あなたが歌ったうた 忘れはしない
好きです いついつまでも
涙が ぽろぽろり

今年歌手生活60周年を迎える島倉さんの記念曲として作られた楽曲。
本来ならCDボックスに収録する予定だった楽曲ですが、亡くなる直前、自宅をスタジオにして
吹き込んだ楽曲だけに大きな話題にもなり急遽、シングルとなり発売された渾身の歌声です。
それはまさに島倉さん流に言えば、死の3日前に探したあてた渾身の「声」でした。

自宅で行われたレコーディング・・・
歌手にとって聖地であるレコーディングブースが目の前に出来たことは、島倉さんにとって、
何よりもの喜びであったに違いありません。生涯を歌手として生きた島倉さんの最後の夢が
叶った瞬間です。それをスタンバイしたのは曲を依頼された南こうせつさんでした。

楽曲の発売が決まった後、南こうせつさんにお会いし話をする機会がありました。
レコーディングの際、島倉さんは椅子に座り、さらに誰かに背中を支えて貰っていないと
ふら付いてしまうほどの様子。通常で考えればとても歌が唄えるような様子ではなかったそうです。
でも、曲がかかり、唄い出すと瞬時に歌手の声になったと言います。録音は3テイクしたのですが、
実際に楽曲としてCDに使用されたのは、最初のテイクワンでOKだったそうです。
そして、この急遽レコーディングが行われた日、ディレクターをかって出た南こうせつさんは島倉さんの
自宅には行かず、近い場所から電話で支持を送っていました。その現場に行かなかったのには
こうせつさんなりの理由がありました。それは女性である島倉さん、きっと自分が自宅行くと
お化粧やら身支度など、いろいろ気を使わせてしまうから。
「島倉さんがリラックスして歌えるように・・・」
「唄うこと以上に気を使わせないように・・・」
でも こうせつさんはもし何かあったらすぐにでも駆けつけられる場所にはいたのです。
その気遣い、思いやりは、最後に島倉さんが「こうせつさんに・・・」そう願い思ったことの意味の
すべてがそこに集約されていたのではないかと感じる出来事です。

葬儀の日、この『からたちの小径』の歌と共に島倉さんからのメッセージも流されました。
多くの皆様に向けてのメッセージのようにも聞かれますが、あの言葉の真意はその最後の
レコーディングに立会い尽力した人へ向けての島倉さんの思いだったのでしょう。

最後の最後、亡くなる3日前の「声」を見事に探し表現した島倉さん。
歌手として見事なまでの最期を送られた島倉さん。どんな裏切りにもどんな困難にも耐え、
信じる「歌」に情熱を燃やし命を懸けた島倉さん。それらのすべてから学ばせて頂くことが
今たくさんあります。そして、教えていた頂いたそれらすべてに感謝しています。

頂いたFAXの一言一言は生きていく者としての永遠のメッセージです。
きっと、島倉さんご自身が実践し、言い聞かせ生きた言葉なのでしよう。
私も頂いた言葉の重みを受け止め生きていこうと思います。

今も何処かで唄っていらっしゃるでしょうか・・・
そして、あの静かな微笑みで皆を眺めていらっしゃることでしょうか。

島倉さん、素敵なメッセージと素敵な歌声を、有難うございました。

私達は忘れません、
命と引き換えに唄い続けた『歌手 島倉千代子』の歌声を。
そう、いついつまでも・・・・
shimakura.jpg

嵯峨 聖子のご紹介

0001.jpg

3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち

ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より、福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
2011年1月より、読売テレビ『す・またん!』にレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。

嵯峨 聖子HP http://www.sagaseiko.com/