大鵬親方を偲ぶ「あの人との思い出」

横綱としての筋

2013年1月、福岡放送『めんたいワイド』の生放送。
いつものように毎週月曜日の出演の際、私はこの日の番組で訃報を伝えることになったその方から
頂いた名刺を衣装のポケットに忍ばせてスタジオに入りました。
それは、特徴のある筆の文字で書かれた、多くの日本人に愛され知られた「大鵬」の名刺でした。

その名刺を頂いたときの状況、忘れもしない情景が未だに鮮明に蘇って来ます。
情報番組で大鵬親方にインタビュー取材をお願いし、自宅に訪問させて頂き、
通されたソファのある居間で撮影クルーと緊張した面持ちで待つこと数分。
その部屋の扉を開けて、少々腰を屈め、我々の前へと姿を見せた大鵬親方。その大きな体は、
想像以上で、存在の大きな重みにその後のインタビューが「上手く出来るだろうか・・・」と、
多少の不安を覚えた瞬間・・・。それもそのはず、目の前の人物は、私の物心ついた時からの
"スーパースター"、その人なのだから。そんな「大鵬親方」から頂いた名刺。それが、
後々まさかこんな風に貴重な一枚になろうとは、その時には考えもしませんでした。

12.jpg 小学校に上がるかあがらないかの頃・・・
見るともなく付いていた自宅のテレビから放送されていた相撲中継。深い関心がなくとも、
知らず知らずに覚えていたのは、"大鵬"と"柏戸"の名前。どの場所でも かならず千秋楽まで
残るこの二人の力士は、いつの間にか記憶に残り、まだ子供の私は、最後、千秋楽は毎回、
この二人の力士が決まって戦うルールなのか、と単純に思ってしまっていたくらい・・・。
相撲のいろはは知らなくとも、「強い力士」であることは間違いなく認識に刷り込まれた時代でした。

そのときのヒーローが目の前にいる。
大鵬親方とのインタビュー取材の現場で私はそんな幼い頃の記憶が頭が巡る中、内心不思議な感覚を持ちつつ目の前のヒーローと向き合っていました。

1.jpg その取材から数年の時が流れ、今回、私は再び同じ相撲部屋のあるインタビュー場所へ。
けれど、当時とは異なり建物はビルとなり、お話を伺うお約束をしたのは親方夫人である
芳子さんでした。

尋ねたのは、悲報から1年と数ヶ月たったある日・・・
自宅ビルのエレベーターを上がり、通された部屋で私を迎えてくださった芳子さん。
その表情は、意外にも多少こちらが戸惑いを覚えるほど、にこやかで優しい笑顔・・・
「えっ・・・」瞬間そう躊躇った私が 「なるほど、だからか・・・」と、その笑顔に意味があったことを、
理解したのは、その後のインタビュー終了時。そこには、親方夫人として生きた芳子さんなりの
「おかみさん」としての姿があったのです。
芳子夫人にお話を聞いた部屋は、そこに居るだけで、その轍が伺える、大鵬さんの写真や賞状などが
所狭しと飾られ、輝かしかった生涯が浮かばれる場所でした。そして「ご夫婦でのお写真をお借りできますか?」
そんな私のリクエストに応え、お持ち頂いた中で、もっとも印象的だった写真は、モノクロの写真で、
二人とも明らかに緊張を隠しきれていない、少々ぎこちないショット・・・
「一緒に写真を撮ろう。」そう言った大鵬さんの言葉に促がされ、撮影したという、写真。
真っ直ぐにカメラを見つめる大鵬さんのその目の先に写っていたのは、何だったのでしょう・・・
きっと、傍らにいる芳子さんを伴侶に・・・漠然とそんな思いもよぎっていたのではないでしょうか・・・
厖大な写真に中でも今では一番の宝物にもなったという、昭和40年の夏、芳子さんの実家「榮太楼」で
撮影した、これが二人で撮った初めての写真でした。

taihouoyakata3.jpg 東北巡業の定宿として宿泊していた秋田の老舗旅館「榮太楼」
その跡取り娘として育った芳子さんが、大鵬さんに見初められ結婚したのは、その写真撮影から
1年後の事でした。そして、「おかみさん」と呼ばれる芳子夫人の人生がここから始まったのです。

芳子さんは、結婚後の家庭での食事の為、料理レシピを自分なりにまとめていました。
婚約中、実家の旅館の板前さんから伝授してもらった料理の数々をノートに書き溜めていたのです。
これは、19歳で嫁いだ芳子さんの大切な嫁入り道具の一つでした。ところが・・・
ある日、そのレシピ帳を見ながら台所に立っていたときの事です。大鵬さんが、芳子さんに
「そんなもの見て作るならやめろ!料理は自分で味を見て作るもんだ!」
そう叱責され大切に書き溜めたそのレシピ帳が、その場でビリビリと破られてしまったのです。
これは、料理の味は自分の舌の味で覚えるものだという大鵬さん流の教えでした。ただ、
芳子さんにとっては新婚当時の思いもしない出来事。「何も、ノートまで破らなくても・・・・」
その時の事は、今でも痛みのある思い出として心に残っていると言います。

taihouoyakata10.jpg 結婚して2年間、芳子さんは毎日トイレに駆け込む日々だったと言います。
「そんなことも分からないのか!」「何してるんだ!早くしろ!」
日常の生活の中で何か気に入らないことがあったとき、大鵬さんは、その大きな手のひらで
芳子さんの頬を平手打ちすることがあったそうです。親にも殴られたことのない芳子さん・・・それでも、
大鵬さんのいる前で泣くことは決してありませんでした。悔しいからこそ、ご主人の前では涙を見せたく
なかったそうです。それは芳子さんの意地でもありました。

ただ、そうした出来事は後援会の方やお弟子さんのいる前でも容赦なくあり、と言うより、
人前だと余計に叩かれたこともあり、そんなときに身の置き場がない芳子さんはトイレに駆け込み、
ひとしきり泣き、泣くだけ泣いたら何事も無かったかのように装い再び夫の前に出て行ったというのです。
女性としては叩かれること事態、とんでもなく屈辱的なこと。
ある時、見るに見かねた後援会長や後援会幹部の方が大鵬さんを諌めたこともありました。
「芳子さんは力士ではないのだから、そこまでしなくても・・・」
「怒るなら後で、人が見ていないところで・・・」
しかし、大鵬さんはこうしたことに一切耳を貸すことはありませんでした。
つまり、こうした行為には大鵬さんなりの考えがあってしたことだったからなのです。
「後で言っても無駄。その場で言わなければ、ダメなんだ。」
つまり、こうした行為はその場にいた者へ対する"見せしめ"でもあったと言うのです。
お弟子さんや付け人には厳しくて、おかみさんにはデレデレ優しい「横綱」では示しがつかない。
おかみさんに対しても、厳しくしていると思わせ「横綱」としての立場を示すという、深い考えあってのこと、厳しさの中には大鵬さんなりの筋の通った「横綱」としての思いがあったのです。
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大鵬親方1940年(昭和15年)〜2013年(平成25年)

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大鵬親方

出身地:樺太(現 サハリン)出身

第48代横綱 大鵬 (納谷幸喜) プロフィール
1940年 5月29日樺太(現 サハリン)出身
1956年  第子屈高校中退
      二所ヶ関部屋入門
      9月場所 16歳で初土俵
1959年 5月場所にて十両入り「大鵬」と改名
1960年 1月場所にて新入幕  11月九州場所にて初優勝
       場所後、大関に昇進(20歳)
1961年 7月場所、9月場所と2場所連続優勝
       第48代横綱になる。(入幕から1年10ヶ月)
1971年  現役引退
1972年 12月独立して「大鵬部屋」を設立し後進の指導にあたる
1977年 脳梗塞で倒れるが闘病の末、回復。
2004年 大鵬部屋を嫁婿の貴闘力忠茂氏に(大嶽部屋)継承
2008年 日本相撲協会 退職
2013年 1月19日 心室頻拍のため死去 (享年72歳)

宿命を背負い生まれてきた親方・・・


taihouoyakata5.jpg 最初の娘さんの出産を終え、一人娘の産後の育児や家事を助けようと秋田から芳子さんのお母様が
上京してきたとき、こんなことがありました。母娘で台所に立ち、何気なく会話をしていたときの事です。
「ねぇ、芳子・・・」
「なぁに、お母さん」 ごくごく普通の母娘のやりとり・・・・
そこへ、たまたま会話を耳にした大鵬さんがいきなりお母様を怒鳴りつけたのです。
「おかみさんと呼べ!」
その剣幕に芳子さん達はあっけにとられたと言います。
母と娘の会話で、ごく自然に名前で読んだだけのこと。
違和感など何も無い状況でした。さすがにこのときは、芳子さんは疑問をぶつけたそうです。
「他に誰もいないところで、母と二人、・・・どうしてダメなのですか?」
ただ、それには「うるさい!」その一言だけでした。
東京での滞在を終えお母様が秋田に帰る日の事、玄関先で見送る芳子さんにお母様は言葉をかけました。
「もし、本当にしんどかったら変なことは考えないで・・・秋田に帰っておいで・・・」
涙ながらに娘にそう伝えたお母様・・・
その言葉はその後の芳子さんの大きな心の支えとなったそうです。

でもそこにも大鵬さんならではの「横綱」としての考えがありました。
どんな人の前でも芳子さんは「横綱」のおかみさん。それは、実母の前であってもです。
どんな場所であっても誰の前であっても、「横綱」のおかみさんとして、立ててあげてほしい、
自覚を持たせてほしい、そんな思いがあったのだ、と、いま芳子さんは振り返って言います。

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すべてが「おかみさん」としての厳しい修行・・・
それに加え、36歳の時に脳梗塞で倒れた大鵬さんのその後の闘病生活の看護。
当時、芳子さんはまだ29歳、当時は3人の子育てをしながら、54人のお弟子を抱える大所帯、
看病の傍ら、親方代行として部屋のこともこなす時間は実に37年も続きました。

でも今回、そんな大鵬さんとの可愛いエピソードを伺いました。
それは亡くなる一週間程前のこと、いつものように芳子さんが大鵬さんの体を拭いてあげた後の事です。
急に大鵬さんが真面目な顔になり、真剣に・・・
「芳子、ありがとうな。愛してるよ。お前がいたから、俺はここまで来れた。」
そう言って、口を尖らせて 「チュー・・・!」と、芳子さんにキスをせがむ動作をして見せたのです。

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芳子さんは思わず笑ってしまい、ちゃかしたそうです。でも、本当はすごく嬉しかったと・・・
「あのときね、抱きついてキスしてあげれば良かった・・・」
インタビュー中、そう言いながらも芳子夫人の表情はきらきら輝き、幸せそうでした。
そして、そのことがあったから、それまでの何十年の事、すべてが報われたと・・・
大鵬さんにとっても、それはすべての肩書きや「横綱」としての思いや背負う大きな責務を脱ぎ捨て、
ただただ妻を愛する、大鵬さんの本当の素顔のシーンだったのではないでしょうか・・・・
「良かった・・・」 何故でしょう?お話を聞いていた私もジーンと胸が熱くなりました。

お別れの時・・・
棺の中に芳子さんはラブレターを忍ばせました。最初で最後のラブレターです。
「ありがとう!私をここまでにしてくれて、ありがとう!ここまで頑張れたのは貴方のお陰です。」
芳子さんもまた、「横綱」大鵬のおかみさんとして日々、恥ずかしくないおかみさんを目指し、
耐えていたのです。生きているうちにはなかなか口に出来ないこと、ラブレターにはそんな
想いをしたためたそうです。

大鵬さんの人生。
「横綱」になるべく宿命を背負い生まれてきた大鵬さんは、自分に厳しく、人にも厳しく、
けれど、その中には大きな大きな横綱級の愛情を持っていたように思います。
そのことのひとつを表すのが、大鵬さんの書く一文字の、『忍』
心の上に刀を背負っている文字。優しい心だけでは、生きてはいけない。
世の中を渡り生きていくには、優しさの上に刀を構え厳しさを持ち戦っていかなければ・・・

約2時間、大鵬さんのお話を聞き・・・
時折、厳しすぎる、と感じる大鵬さんの生き様が一生を通じて少しもぶれることなく、
ご自身の生き方に繋がっていると感じました。
まさに自分が思う『横綱』としての人生を自らが身を持って全うされた
72年の月日だったのではないでしょうか。

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そして、最後に理解が出来ました。出迎えてくださった芳子夫人が笑顔であった理由。
それは、いつの時も・・・苦しいときも悲しいときもどんな場所でも誰と居ても「横綱」大鵬が思う、
おかみさんとしてのあるべき姿。だからお客様を迎えるときは「笑顔」だったのです。そして、
そんな芳子夫人がいたから、大鵬さんが「横綱」らしく存在したのだと確認した気がしました。

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私にとっては、頂いた大鵬さんの名刺が大切な宝物になりました。
そして、これから楽しみに思うことが出来ました。それは、大鵬さんにも似たお孫さん達。
育っていく先はまだ未知数ですが、きっと大鵬親方の魂は受け継いでいくことでしょう。

『第四十八代横綱大鵬』
相撲道を通し、日本に大きな勇気と元気を齎し生きた「横綱」大鵬、そして、
お話を聞かせていただいた芳子夫人に心から感謝して・・・
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嵯峨 聖子のご紹介

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3月2日生まれ/A型
文化女子大学 生活造形学科中退
大分県別府市生まれ、兵庫県尼崎市育ち

ヴォイストレーナーの第一人者である大本恭敬氏を師に持ち、土居甫氏にダンスを伝授された嵯峨聖子は、歌手としてデビューし、全国高等学校サッカー選手権大会歌として、現在も幅広い世代に親しまれている「ふり向くな君は美しい」などを発表。
また「別れても好きな人」でヒットした「ロス・インディオス」の女性二代目ボーカリストとして参加。その後、テレビ番組でのアシスタントやラジオDJを経て、ワイドショーを中心としたリポーターとして活動を始める。
911NY同時多発テロなどの事件、著名人の葬儀、巨人軍のキャンプの中継など、幅広く取材を担当した。
「唄うように語り、語るように唄う」をモットーに、説得力ある魅力的な「声」と「語り口」で人気。
2010年6月より、福岡放送『めんたいワイド』の芸能コーナーにレギュラー出演中
2011年1月より、読売テレビ『す・またん!』にレギュラー出演中
趣味は映画鑑賞、音楽鑑賞、野球観戦、旅行、料理、詩作、絵画。

嵯峨 聖子HP http://www.sagaseiko.com/